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August 03, 2005

千葉の軍事鉄道遺跡を訪ねて(上)

▼千葉の軍事鉄道遺跡を訪ねて(上)
▼五味川純平原作の超大作小説「戦争と人間」は、山本薩夫監督によって35年前に第一部が映画化された。ことしは戦後60周年を記念して8月6日(土)8月19日(金)から東京白山の300人劇場(03-3994-5451)でデジタルリマスター版で公開される。また7月末にはブルーレイのDVDで3巻セット価格26250円で発売になった。わたしはあの中で張作霖林爆殺事件が記憶に残っている。日中戦争と満鉄は切っても切れない関係にある。満州国をでっちあげた日本はそこに満州鉄道を作りその鉄道を守るという目的で、関東軍を配置した。
▼以下筆者は戦争を批判的に考える立場に立って考察するもので、誤解のないようお願いしたい。戦争を遂行するために必要なのは当時も現在の湾岸戦争まで、兵站技術(トランスポート・必要な時に必要なものが現地にある)が戦争の正否を左右する。ところが日本は食料だけは現地調達主義を取っていたため、現地の人々から収奪・強奪するなどし、敵を作ってきた。そのため日本軍の戦死者は、戦闘中の死者より餓死者が上回った。
▼鉄道に超特急列車を走らせるためには、単レールに列車を乗せただけでは走らない。満鉄は超特急列車のためにどんな工夫をしたか?経費を抑えるため新たに路線を敷設するのではなく、現在使用している路線使って走らせるようとした。そのため全路線に大型の機関車を走らせる事が可能かどうか、強度の調査をする仕事からはじめらた。具体的には保線係がミリ単位の路線改良が始まった。さて、それを支えた技術がどこにあったかというと軍隊であった。
▼日本陸軍の鉄道部隊は明治29年に東京牛込河田町の陸軍士官学校で発足し、鉄道大隊となった。この大隊は日露戦争で活躍し、軍事物資・機材を確保する上で必要不可欠の戦力として位置付けられる。その後鉄道部隊は日露戦争でも出動し、朝鮮の京義線、満州で安奉線などを建設している。そして明治41年に鉄道連隊となり、東京から当時の千葉町都賀村と津田沼村に移転して来た。千葉には連隊本部、第一大隊、第二大隊、材料廠、津田滑に第三大隊が創設されました。その任務とは軌道の施設だけではなく、路盤構築、鉄橋の爆破・架橋等の多岐に渡ったという。それで最初にご紹介した事件と連隊の任務が一致することがお分かりになろう。
▼軍用実験線は千葉県内各地に存在する。最も重要なものは千葉→津田沼間で総武本線の北側を走っていた。また軍用線の津田沼→松戸間は現在新京成線としてそのまま残されて運用されている。
▼ではこの鉄道連隊の遺跡がどれだけ残っているか、実地に調査してみることにした。まず津田沼の現在の千葉工業大学通用門が残っているが、これは当時の鉄道第二連隊の入り口がそのまま残っている。(写真1)さらに習志野市役所脇にハミングロード(写真2)としてがあり、両脇に木が植えられてうっそうとした遊歩道になっているが、これは実は鉄道連隊軍用線の跡なのだ。
▼次は千葉市内に移動して見る。穴川の千葉経済短期大学は陸軍兵器補給廠のあったところだ。ここに赤煉瓦(写真3)の建物があるが、見学するには手前の高校の受け付けに行って許可を貰う。当時の機関車組み立て工場が残されている。赤煉瓦の建物は現在は千葉県の有形文化財に指定されている。カギを開けて中に入れていただいたが、現在は劇団の大道具置き場になっていた。それでも内部からみる煉瓦のカーブは見事だ。外部は少々加工されているが、よく探すと鉄道のレールが一本残っているのを発見する事ができた。(写真4)敗戦当時たまたま奥まった位置に隠してあった蒸気機関車は、軍の接収対象とはならず、運良く小湊鐵道五井駅に保管されることとなった。(以下8月中旬執筆の下に続く)
画像はデータベースにあります。
参考文献「満州特急あじあ物語」林青梧著 講談社学術文庫
    「ちばの鉄道一世紀」白土貞夫 侖書房
    「房総の廃線」ホームページ
    「虚構の大義 関東軍私記 」五味川純平 文藝春秋

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