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August 04, 2007

東京湾大房岬要塞跡を訪ねる

Hasshadai
 新藤兼人監督の最新作「陸(おか)にあがった軍艦」を初日初回に見に行った所、監督が舞台挨拶で次のように語った。「軍隊の悲惨さだけを強調しがちだが、本作品は冷静に見たら滑稽であることも強調した」と。映画の中では木製の戦車に木製の擲弾筒をもって体当たり訓練をする。鉄の戦車に人間が体当たりした位で勝てる筈はないのだが、ノモンハンでは「戦車の数より兵隊の数が多いから1人が1両爆破すれば勝つ」という珍妙な論理がまかり通るのが軍隊だ。
 日本の主要港湾を外国の攻撃から守るという目的で、函館始め全国で要塞建設がはじまったのだが、その一つが「東京湾要塞」である。明治13年に砲台の建設に着手されている。さらに明治20年には東京湾防御10年計画が立案される。第一次大戦までは軍艦が主力の戦いなのだが、第二次大戦になると航空機や潜水艦の存在を無視できなくなり、要塞の考え方も次第に変わってくる。つまり航空機からの偽装対策も必要になり、かつ爆撃に耐えられる砲側部のコンクリートの厚さが3mにもなる。
 当然要塞は軍事基地なので一般市民が立ち寄ることなど出来ず、憲兵隊や特高警察が市民を監視し、戦争中は東京湾側の列車の窓は鎧戸を下ろす事を義務づけられていた。では装備する主砲はどうするか?軍艦を狙うには強大な砲でなければならない。おりからワシントン軍縮条約で日本は軍艦の総トン数を減らさなければならなかった。そこで標準が当てられたのは、廃船になって除籍された戦艦「鞍馬」か「伊吹」(と推測される)の20センチカノン副砲2門が大正18年、大房岬砲台に設置される。当然敵艦を挟み撃ちする必要があるので、もう一つは対岸の剣崎砲台に設置された。
 要塞地帯は陸軍に所属していたが、海域部は海軍横須賀鎮守府の管轄になっていた。そして不思議な事が起きたのは昭和16年12月8日対米開戦の夜の事だった。一隻の潜水艦のスクリュー音を日本軍は捕らえた。そして潜水艦めがけて一発の砲弾が発射されたが、船はどこかに去ってしまった。ここから実弾が発射されたのはこの一発だけだったらしい。
 今回取材にご協力下さったのは相沢伸雄さん(NPO法人南房総文化財・戦跡活用フォーラム理事長)である。相沢さんは教職に就いていたが、この戦跡を紹介することで、平和の大切さを今にアピールしたいという一心で早期退職をし、この運動に情熱を傾けていらっしゃる。まず砲台跡を見る。そのあと探照灯跡、監視台跡を見る。日本軍にはレーダーはなかったので目視とこの探照灯が物をいう。探照灯敵艦を照らして巨大な双眼鏡のような測定器で距離を測って弾丸を発射する。120トンもある重い大砲を船で運び、海岸からどうやって80mもある大房岬まで上げたかその方法は推測の域を出ない。またコンクリートの厚さと、その技術のすばらしさは今でも十分通用する。さらに海まで下りるとカタパルトのような物が残っている。生き残った人の証言によると、靖国にある人間魚雷1型回天をさらに小型化した、寝て操縦する10型回天がを運んだという。ここが10型の特攻基地になっていたのだ。さらに写真の後ろにある断崖では、山岡部隊という特殊部隊が断崖登攀訓練中に少なからぬ人が命を落としたという。そこではアメリカ大統領暗殺計画をたて、兵士もアメリカに潜入しても不審に思われないよう、長髪で背が高く日常会話は英語を話し、装備も日本軍にはないような最新鋭兵器まで持っていたという。アメリカへの輸送手段もなかったのにこの訓練をする異常さだ。
 軍隊は個を殺し、敵を抹殺する事を目的化するために作られていることだ。一見信じがたい滑稽な訓練も日常化する。相沢さんは「国民投票法が実施される3年の間に何としても戦争の愚かさを遺跡を通して知って貰いたい」と、きょうも汗をかいて車を走らせる。
▼正式原稿は以上。これでも200字ほど長すぎるかも知れない。取材のネタではこの10倍くらいは書ける。明日からは原稿にならなかった取材余話を書くつもりである。ああ盆休みまでにあと2本原稿を仕上げなければならない。

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