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July 19, 2008

習志野の「支那囲壁砲台」に行く

 Houudai5支那囲壁砲台跡
Houdai4ehagaki
戦時中に発行された絵はがき(同じ場所、習志野市HPより)
▼わたしは1年前に購入した竹内正浩著「戦争遺跡/日本編」(文春新書)のあるページをめくったとき、一枚の写真に目が点になってしまった。65ページにあった「支那囲壁砲台」(この名称は国登録有形文化財として固有名詞となっている)の写真だ。この施設こそ、今で言う都市型接近戦訓練施設(CQB)だったからだ。この建物を一目見たいと思っていたので、7月中旬の気温は30度を超す蒸し暑い日に、友人とともに習志野市にあるその遺跡に向かった。本によれば習志野四中の近くと書かれているだけだ。習志野市のHPでも確認したが場所の詳細は分からない。中学の近くに到着して、付近に住んでいるらしい年配の男性に本を示してお聞きした。「この施設は近くにありませんか?」すると「知っているよ。親父が軍人だったからね。あの乳母車のいる辺を探せば分かるよ」と四中の北東の位置を指さす。教えていただいた方向を目指して歩くと目標の建物はすぐ見つかった。想像していたものよりは多少小振りで高さは10mもない大きさに作られていた。そしてかなりがっしりとした作りで、ご覧のように建物には内側から使う銃眼が作られている。
 家の前の道路を清掃していた方が、この住居にお住まいの方と思って声をかけたら、ご近所の方だった。ときおり先生に引率された生徒さんが見学に来ることがあるという。入り口に回ると猫が2匹木陰で涼んでいた。家の造りは日本のそれと違っていかにも中国の胡同の一角という感じである。玄関に回ってお住まいになっていらっしゃる方にお話しをお聞きしたくベルを何度も押した。しかしご近所の方のお話しでは「車がないからお出かけでしょう」という事だった。戦前発売されていた絵はがきで確認すると現在残されているのはその一部分であることが分かる。この砲台は元もとかなり大きなものである。これは昭和9年(1934)に工兵隊によって作られたと習志野市のHPに書かれている。
 つまり満州事変の2年後には、軍部は中国侵略を視野に入れて密かにこの実物模型を作って猛訓練を行っていたのだろう。
 習志野は江戸時代には、小金ヶ原とか大和田ヶ原と呼ばれ富士山や筑波山も一望できることから「一望千里」と呼ばれた広大な土地であった。明治6年(1874)大和田原で、当時陸軍大将だった西郷隆盛の指揮のもとに近衛兵の大演習が行われた。そのとき明治天皇が習志野原と名付けた。ここにでは日露戦争に備えて明治32年(1900)ここに第13、14騎兵師団(騎兵第一旅団)と第15、16騎兵師団(騎兵第二旅団)がおかれるようになった。日露戦争の攻防は203高地で知られるように塹壕戦であった。そのためこの地に塹壕を掘って演習を重ねたのだ。その塹壕の跡は昭和62年(1987)頃まで現在の日大理学部内あったが、危険のため埋設されてしまったようだ。
 囲壁の後は、騎兵旅団跡を見る。第14連隊の碑は日大生産工学部の中にあり、第13連隊の碑は塀を隔てて東邦大学薬学部内におかれている。そこには作家司馬遼太郎の書いた碑もある。なぜかというと司馬の著作「坂の上の雲」の中心人物の一人騎兵第一旅団の秋山好古旅団長がここにいたからだ。「坂の上…」では、「日露戦争は防衛戦争だった」とするのが司馬の考え方である。だから碑に「かつて存在せしものは 時代の価値観をこえて保存し 記念すべきものである それが史観というものである」と司馬は言い切るのだ。
 やがて騎兵は時代にあわなくなり、ここに戦車第二連隊がおかれるようになる。東邦大の碑の一番囲右手が戦車第二聯隊跡碑がひっそりと立っている。しかし戦車は工業化と大量生産に裏付けられるものだが、技術の差で戦闘機よりも爆撃機よりも高価だった。旧日本軍には歩兵による白兵戦を重視した戦略にだったたため、ノモンハンでも南のジャングルでも日本の戦車はたいして役立たなかった。
 そして最後の習志野駐屯地の近くにある習志野霊園へと向かう。ここには昔陸軍墓地があったところで、日露戦争のとき捕虜になって死亡したロシア兵、第一次大戦のとき青島で捕虜になって死亡したドイツ兵、それに日本兵の慰霊碑が3つ並んでいる。司馬の史観で見たら、この慰霊碑の下に眠る人たちをどう例えるのだろうか、ふとそんな考えが頭をよぎった。参考文献「司馬遼太郎対話集6/戦争と国土」文春文庫 「斜陽に立つ」古川薫著 毎日新聞社 「技術戦としての第二次世界大戦」兵藤二十八 PHP文庫他 *ほぼ完成した原稿です。

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