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October 07, 2008

NHK3ch「特集従軍写真家、小柳次一」を見る

Tubamebento九州新幹線「つばめ弁当」を開く、外装はトップページにあり
◇NHK教育TV午後10時「ETV特集従軍写真家、小柳次一」小柳は1907年に生まれで1994年まで生きた。彼が従軍した行程は上海から千島列島、最後は知覧まで延べ5千キロに渡る。彼がなぜ従軍したかと言えば当時の写真家である名取洋之助が対外宣伝誌[NIPPON」を創刊してそこに誘われた事にある。対外宣伝誌とは聞こえが良いが、実際は軍部によるプロパガンダの雑誌に変身していく。今回はそれがテーマではないので「NIPPON」については省略する。小柳はそこで従軍カメラマンとして身を投じる。現地で書いた従軍日記には死を決意した記述も見られる。
▼小柳が最後に行ったのは昭和19年の知覧である。そこでまさに死の飛行に飛び立とうとしている兵士たちの群像を沢山とっている。その中の一枚で水杯をもってニッコリ微笑んでいる宮越春雄准尉の姿があった。今回小柳の写真を整理分析している一人、写真家の石川文洋が、「なぜ死に直面していてこんなに明るいのか」という疑問を持って宮越の実家新潟県上越市を訪ねる。そこには宮越の妹夫妻と宮越の次男がいた。彼らは知覧に行ったとき、准尉の写真を見つけて自宅の仏間に飾ってある。宮越の妻は4年前に亡くなっていた。しかしその微笑む写真を見て泪が止まらなかった。そして次男が父の遺影を持っている写真を撮って、「これでようやく父子が対面できた」と喜んでいたという。つまり准尉は自分の息子を抱くことなく死へと旅だってしまったのだ。
▼小柳は戦後写真館を経営していたが、自分がかつて撮影していた写真の中で遺族が見つかると探し出して届けることをコツコツとやっていた。終の棲家となった4・5畳くらいの宮崎にあるボロアパートに一人で住んでいたが、それも特攻隊の遺族が提供してくれた家だったという。石川は小柳の写真を見ながら、要求された勇ましい写真だけでなく、兵士達の風呂に入る日常生活、ススキの花の咲く道路を行進する兵士たちを叙情的に切り取っているいくつかの写真があることに気づく。
▼敗戦が確実になり米軍の上陸が確実になると会社は小柳の写真を全部焼却させた。しかし小柳はフィルムをデュープしてこっそり隠し持っていたのだ。さらに後半(つまり敗戦が色濃くなる)と爆撃や銃撃で家や家族を失って歎く民衆の姿を撮っている。これらは当然発表する機会などなかったのだが、小柳の戦争を見る目は現在の写真ルポルタージュの手法と同じ、民衆の立場に確実に変化していったのだ。それがおそらく特攻隊員の気持ちや心をひらくことに通じて、微笑む最初の宮越准尉の写真につながっていったのだろう、と思った。

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