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October 19, 2008

久留島浩氏から「東海道の助郷」の話を聴く

Kurusima(久留島浩氏)
▼この数日間ブログのアクセス数が普段の半分くらいに減ってしまった。原因は不明だが、「辛口」の批評ばかり書いている結果なのかも知れない。まぁそれは覚悟の上だから別に気にしない。
▼昨日は千葉にある書店Tの主催の教養講座「房総の村々と東海道の助郷」という話を歴博の久留島浩教授が話をするというので取材を兼ねて行ってきた。いや土日の取材などは全部お断りしているのだが、S編集長からの要請で昼からでかけた。場所は県庁の隣にある「菜の花プラザ」である。一応ICレコーダーとカメラは持参した。ただ「教養講座」で人の話を聞いただけで記事になる訳はないのだが、S編集長が「とりあえず聴いておいて欲しい」というのだ。受け付けに行って名前を確認するが記載されていない。編集長が気を利かせて申しこんであると思ったが、甘かった。それほど気の利く人ではなかった。名前を記入して1500円を払い込み、常にそうだが最前列の真ん中、つまり講師の真ん前に座る。
▼2時間30分近い話だったが、内容はあらまし次のようなものだ。明治維新になって京都に住む天皇と東京に定着するため、その行幸を国民に知らせる必要があった。つまり参勤交代のようなものをするのだ。そして京都の人々にも天皇が東京に移る事を納得させるために、3回も京都と東京を往復させる。当然そのために莫大な金が必要になる。それを幕府から変わった新しい政府は幕府の組織をそのまま引き継いで、賦役を割り当てた。当時千葉は27の行政区に分けられていた。つまり千葉県はまだ出来ていないので、藩である。そして天皇の参勤交代のため千葉の賦役は東海道53次の日本橋から13番目の「神奈川」の宿場まで責任を持たされていた。
▼要するに行幸する際にそこまで千葉に住む人々に人馬を派遣せよと命令された。当然行くのは大変なので、税金で払おうとする。その場合千葉27の助郷(一つの地域から代表を出して合議する)方式が採られた。代表に選ばれた人たちは、一銭でも税金を安くしてもらおうと役人と丁々発止もしくはのらりくらりと交渉を重ねる。要するに江戸幕府から明治に変わっても下部では何も変化がないので、「自治組織」は江戸時代に作られて助郷が機能した。時代は変わって行政制度は変わって全く新しい方式が採用されたように考えられるが、実際は江戸時代からの方法がそのまま使われていた。
▼なにせ2時間半だから要約することには時間がかかる。ここに書けるのはホンのさわりである。明治政府は道路を整備することがこれからは大切になると考えて、その後もこの助郷を利用しようとした。しかしおおざっぱな税金の取りたてに対して、助郷の人々は他の地方との比較をしたり、横の連絡を密にして少しでも安くしようと抵抗を続けて、千葉においては木更津県が出来上がり、そこでの交渉の成果を千葉全県に拡げようとした。その動きがやがては自由民権運動の基礎となった。しかし千葉では残念ながらそれはそれは政党政治に変質してしまう。という風にわたしは理解した。
▼久留島氏は着るものにはあまり頓着しない人で一見メタボ体型で声はマイクを使わなくても会場に響き渡らせる。そして当時の問題をイラク戦費を日本で負担したこと、後期高齢者医療制度と比較したり縦横無尽に尽きることをない研究結果を発表して会場を唸らせた。(とくにわたしは)そして最後は大久保利通にも触れた。彼の書いたもの、暗殺されたときの血染めの着衣、そして常に持っていた拳銃は歴博に保存されているのでいずれの日にか公開するつもりだとも述べた。しかし拳銃については「当局」からおしかりを受けたが、それは大久保の子孫が持っていたものだ。しかし故障していたし、常にもっていた筈が暗殺されたときには持っていなかった。持っていても弾丸を発射することはできなかっただろう、とも述べた。そして大久保は伊藤博文と違ってかなり有能な官吏で将来を考えて行動していた、という話だった。

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