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January 20, 2009

トルコと日本の歴史的な深いつながりとは

▼昨日通院と書いたので心配された方もいらした。通院というのは薬を処方してもらうために28日ごとに医師の所に行かなければならない、ということなのだ。いつも血圧を測りながら、「どこか頭が痛いとかありませんか?」等と雑談をしながら世間話をする。わたしが「イスタンブールに行ってきました」というと、「♪飛んでイスタンブールか、と歌を口ずさむ、つづいてカッパドキアはどうでした?」と聞くから「あの程度の奇岩はさほど珍しくありません」と答える。次に「パレッカムはどうです?」と聞かれる。お主できるなと思う。パレッカムなどわたしは現地に行くまで知らなかった。両方とも後日詳しく書くが、石灰岩が段々状になって温泉を流す奇岩のような場所だ。これも湯量が少なくなった今は人間が調整して温水を流すようになっている。そのため足湯に浸かることだけができる。足湯だけならば日本の温泉の方が遥かに優れている、と答える。そして今まで見てきた世界遺産の感想を言うと、「そうかメインテナンスの方が大変なのだ」と医者らしい意見を述べる。
▼先日WOWOWで昨年公開された「母べえ」という映画が放映されたので、録画して見た。やはり映画館に行かなくて良かった。吉永小百合は演技とはほど遠い役者である。唯一良かった俳優は彼女の父を演じた中村梅之助だけだった。一部に評価された映画ではあるが、三津五郎にしても、淺野忠信など今までと違いすぎる役柄でミスキャストが目に付く。内容は1940年頃の日本だが、研究者である父親が特高(特別高等警察=思想警察)に逮捕され、その留守家庭を守る母の話だ。この映画を見て「ああ戦争は自由を束縛されるからイヤだ」という意見が多かったように思う。しかし赤紙(召集令状)が来たときはすでに遅いのだ。自分とは違う考え方を排除するのが戦争につながっていくのだとわたしは思う。
▼例えば今日本中で蔓延している、京都議定書に基づきCO2を規制する動きはとどまるところを知らない。TVやラジオのCMではエコが声高に叫ばれる。一部生協や杉並区ではレジ袋の義務化や使っている店や使わない店の公表まで始めた。この思想こそ「正しいことをしているつもりの善意の人」をファシズムへと駆り立てるのだ。レジ袋を使っている人を白い目で見る。ある意味では電車の中の携帯使用の禁止も同じだ。やがて「あいつはおかしい」と白い目で見るだけでなく、糾弾するようになる。戦前「贅沢は敵だ」というスローガンが市井に蔓延して、自由にものが言えなくなって行った経過と似ているではないか?レジ袋を使わなくなっても1一日一枚、1年間も倹約したとしても、トータルで1000円くらいしか節約できない。2000円のエコ袋を買ったら逆の無駄遣いになる。
▼大都会では自家用車のシェアリングなどを進めた方がCO2の削減に効果的であることは言うまでもない。それで「母べえ」は「抑圧された「被害者だった」」という被害者意識の連打なのだ。吉永の演技では山田監督の力をしても、どうしようもない作品に仕上がっていた。
▼昨日の続き、串本沖のエルトゥールル号の難破した話だ。オスマン帝国の軍艦は日本の小松宮の同国訪問に返礼すため目的で日本に近づいて来たが、訓練不足もあって難破してしまう。そのため587名の乗組員は命を落とす。台風で船に近づくことは困難を極めたが69人が山田の尽力もあって救出される。ガイド氏は150名と言っていたが違う。それで山田は救出した乗組員を送り返す。そして自らオスマントルコ君主に献上品の兜や鎧を持って表敬訪問してトルコ国民から感謝されたという話だ。
▼以下ガイド氏の話であるので、そのつもりで。もちろん黒海において当時のトルコは当時のロシアに苦しめられていたので、日本海海戦で日本がロシアに勝ったことはロシア国民を勇気づけた。その他には朝鮮戦争の時NATO加入を条件にトルコは兵士を朝鮮半島に派遣した。そのとき負傷した兵士は沖縄とどこか(書き漏らした。おそらく朝鮮戦争の時の重要な兵站基地はキャンプドレイク(旧米軍朝霞基地)埼玉だったかも知れない。そこで負傷したトルコ軍兵士は手厚い看護を受けた。しかし犠牲を払ったにも関わらずトルコのNATO加入は反古にされた。そのようにトルコと日本は親密な関係にあった。ところで第一次湾岸戦争が始まろうとしたときテヘランには220名の日本人が取り残された。日本政府は日航を使って救出に向かおうとしたが、パイロットは戦火の中を飛んだ経験がないので飛ぶことはできなかった。それを知った伊藤忠の社長がトルコの首相と知り合いだったので、直接頼み込んで首相命令で特別機を飛ばせて日本人を救出した。
▼数年前に日本の小泉首相(わたしの大嫌いな)がトルコを訪問したとき、その時活躍した13人の乗組員を集めてもらって勲章を手渡し、食事に招待してその労をねぎらった。小泉氏が「こわくなかったかね」と聞くとスタッフは「それは怖かったです。しかしトルコ国民は串本で助けて貰った恩を忘れてはいないので、断ることはできなかった」と答えたという。以上はガイド氏が言ったそのままを再現したのであるが、ガイド氏の話がとてもうまくて、不覚にも思わず涙がこぼれてしまった。
▼本日メルマガ〆切り日です。もっとも編集長のわたし以外の原稿はすでにすべて集まっている。

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