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August 30, 2009

NHKハイビジョン「従軍看護婦が見た戦場」をみる。

▼午後から日比谷に出て、土曜封切りの映画を見ようと思った。チケットを買おうとすると、「午後5時の回で良いですか?」と聞かれる。わたしは我が耳を疑った。現在の時間は12時半なのに、なぜ夕方まで待たなければいけないのか?理由は初日で主演女優の深津絵里の舞台挨拶が3回もあるので、それまで満員なのだという。諦めて近隣の映画館を4ヶ所ほど見たが、見たい映画もなく、時間帯もあわなかったので帰宅する。
▼「従軍看護婦が見た戦場」NHKハイビジョン29日午前8時の再放送。「少女たちの日記帳」でもそうだが、当時の学校教育は13歳の主人公の石堂郁江に、「たくさん子どもを産んでお国のためになりたい」と言わせる。このドキュメントに登場する看護婦たちもどうしたらお国のためにたつのか真剣に考えた末、戦争で傷ついた兵隊さんを助けるという純粋な気持ちで、その職業を選択したに違いない。とうじもてはやされたのは「爆弾三勇士」である。マスメディアはこぞって、この「軍神」を持ち上げる。そしてある看護婦は毎晩寝るとき軍神に敬礼してから寝たという。
▼登場する元看護婦の年齢は大体85歳前後だ。敬礼してから寝たというのは、石田寿光恵だ。彼女たちは日赤に入職するのだが、陸軍は法律を「日赤職員は軍の命令に従うもの」と変えてしまう。戦地にあって彼女は軍医の命令を聞かなければならない。村山三千子は満州にいくまえに「遺髪」を家族に残していった。そのお下げ髪は今も実家に保管されていた。彼女は上海、天津の作戦に参加していたが、兵站として陸軍病院に勤務していた。
▼先の石田さんは満州にいっていたが、そこではチフスや赤痢という伝染病の治療に当たっていた。しかし現地に最早治療薬は何もなかった。そして病気に罹った兵士のモモに食塩水を注射して、そのあと揉むしかなかった。またそれらの治療法も原始的というもので天窓を開いて空気を入れていた。そうすると病室の気温は零度以下に下がるが、それは空気療法という名で呼ばれていた。
▼守屋ミサは精神疾患の兵士を扱っており、外地から日本向けの病院船に20回は乗船していた。しかし兵士は「人を殺した」ことがトラウマになって暴れていた。それで仕方なく鍵のかかる病室に監禁するのだが、その鍵を壊すくらい暴れ回っていた。そして船員さんは船の中で死んだ兵士を水葬にするのは忍びないと、ボイラーを使って火葬にして遺骨を持ち帰るなどしていた。
▼奥村モト子は3年で卒業するところを2年で繰り上げて配属された。爆弾で死んだ兵士は身体が生温かいので、どうしても死んだと思えなくて、鷹の爪をお湯に溶かして兵士の口元に運んだりしたことがあった。そして絶体絶命の立場に立たされたとき、夜になるとみんなの口に出てきたのは「野戦病院の歌」だった。武山敏枝は目の前に死体が累々と転がっていたのを今でも忘れることは出来ない。あるとき特攻に一人で出掛けなければならない青年がやってきた。普通は二人一組で出掛けるのだが、彼は「一人でいくのは寂しくて仕方ない。お姉さんどうか人形を作ってくれないか」と頼まれた。翌日それを渡すとこれで寂しくないと飛行機で病院の上を旋回して特攻に出掛けていった。
▼吉田ハジメは軍医に「病院の患者をせめて楽にさせてやることが、我々の任務だ」と謂われて彼らにモルヒネを静脈注射したり、それがない場合はクレゾール液を注射した。本来医療関係者は生命を守るのが任務であるはずなのになぜこんな矛盾した事をしなければならないか、これほど悔やんだことはなかった。(以下明日に続くかも知れない)

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