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August 14, 2009

NHK◇「禁じられた避難/青森市」を見る

▼午前中「シネマの原稿の締め切りが過ぎている」という連絡がある。毎朝一番に「編集企画書」で確認するのが日課だが、来週かと勘違いしていた。「1時間待って欲しい」と頼んで送信する。午後から仕事に使うマシンの調子がおかしいので某サービスセンターに持ちこむ。15分ほど見て貰ったが「やはり変なのでお預かりする」という事になった。そのマシンを使うのは9月第一週なので、それまには間に合わせてくれるという。
▼朝日13日夕刊に「隅田公園のアブラゼミ戦禍の記憶」という記事がトップだった。「大空襲でセミが全滅し唯一戻る」という推論を研究家が出したという。墨田公園は台東区側と、墨田区(朝日ビール側)にある。台東区側では4種類のセミの鳴き声がしたが、墨田区側ではほとんどアブラゼミだけだった。考えられるのは大空襲で地域の昆虫がほとんど全滅して、セミの幼虫も焼き尽くされたのが原因ではないかというのだ。戦後64年たっても昆虫の世界はまだ復興していないのだ。
◇「禁じられた避難/青森市」NHK12日の番組。日本は戦争で南方から石油が入らなくなると北海道の石炭だけがその生命線になった。その石炭の量は以前の30倍にも上った。軍部は青函連絡船を使って北海道から青森に石炭を運び入れた。青森の陸奥湾には米軍の100機の艦載機による空襲行われた。市民はそれに怯え子どもを疎開させたり山中や農村に逃げていった。しかし軍部は1週間以内に戻らないと配給を停止するという命令を新聞などに出した。
▼空襲に備えて昭和20年5月、青森市内では延焼を防ぐため建物が人力によってロープで「疎開」という名の取り壊しが行われた。7月14日の空襲では12隻の青函連絡船はすべて沈没か座礁させられてしまった。市民はその空襲で郊外や田園地帯に逃げるが、青森県の金井知事はそれに危機感を感じた。それで山中に小屋などを建てたりした場合は「防空法によって断固たる措置を取る」と命令する。当時仙台空襲を体験した大沢勝見さんは空襲の威力を知っていたので、消化バケツなどで火は消すことができないと市の関係者に言っていたが聞き入れられなかった。
▼空襲に先立ち7月27日に米軍機から7万枚のビラが投下される。それには「青森市始め以下の3都市を爆撃する」と書かれていた。ビラの目的は市民を動揺させる目的を持っていたが、憲兵によって回収されて、一般市民が目にする機会は少なかった。鳴海正子さんは幼稚園の地下壕に潜る。花田哲子さんは当時13歳で、家を守るという父と別れ、叔父を先頭に家族一緒に逃げる。
▼青森市を襲ったのは62機のB29爆撃機で1機には9トンの焼夷弾が積まれていた。午後10時半頃から空襲は始まる。ところが青森で使われた焼夷弾は新型のM74爆弾だった。それは今までと違い黄燐爆弾というもので空気に触れただけで発火するので水による消火などまったく効き目がなかった。花田さんは防空壕から逃げ出した人が映画のように、防空ずきんが火だるまになっているのを目の前で見た。鳴海さんは自分の子どもがぐったりして異常に重くなったので死んだ事を悟った。花田さんは跨線橋の所までいくと警官がサーベルをガチャつかせ「戻って火を消せ」と脅したが隙を見て逃げたので焼かれることはなかった。
▼この日の空襲で死んだ犠牲者は1018人だった。空襲の18日後に終戦になったが、その3日後に鳴海さんは我が子の遺骨を受け取る。父が死んでも家族が死んでも涙は出なかったが、我が子の遺骨を受け取る瞬間は涙がとどめなく流れたという。軍は軍需工場で使う石炭を守るために疎開を許さず、県と市はそれを受け入れ「食料を渡さない」と市民を恐喝したため犠牲者は余計に増えたのだ。ここでも市民を守らない軍隊の本質を垣間見ることができる。
▼検索用語を解析していると「戦場からのラブレター」を見て下さる方が出てきたので嬉しい。あの日のブログは不十分だったのでその後もう一度録画を見て、妻の書いた手紙をきちんと再現しました。

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