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August 25, 2009

ETV「戦争とラジオ第2回/日米電波戦争」を見る

▼昨日の検索用語を分析すると、NHKETV「戦争とラジオ」がかなり多かった。これは日曜日夜10時から「第二回」が放映されたものだ。わたしは1時間以上の番組をリアルタイムで見る時間が惜しいので、録画してから見るようにしている。健康上の理由で夜10時代はTVもパソコンも開かない。だからそんなに早くアクセスして下さっても見る時間も書く時間も取れない。それに要する時間は書き手の側は2時間半くらいかかる。しかし見て下さる方の滞在時間は1分足らずだ。ブログは商売でやっている訳ではなく、文章を書く修行だと思って割り切っているので、そう考えて自分を納得させる。
◇「シリーズ戦争とラジオ第2回/日米電波戦争」先週に引きつづき日米の戦争中のスタンスを検証した。最初に登場するのは、新憲法草案の作成にも加わった、ベアテ・シロタさんだ。彼女は数年前に日本の護憲団体に招かれて来日したことがある。若いときの写真を見るとまるで映画女優のような美しさだった。
▼彼女は大学にいるときスカウトされ、カリフォルニアでNHKの海外放送「ラジオ・ジャパン」を傍受して翻訳する仕事に携わる。しかし大学在学中だったので「大本営」という言葉の意味の分からなかったという。NHKは1935年愛宕山から一日1時間の海外放送を始める。その後国策をアピールする有効な手段だと考え、1939年内幸町に移転するが、それから1日8時間の放送をするようになった。しかしそれは内閣情報局の統制下に置かれていた。そこが「放送のしるべ」というガリ版刷りのマニュアルを時々発行していた。それを見ると放送は「思想の尖兵であり、姿なき爆弾」だと規定している。
▼謀略放送も行われ、1942年インドネシアのジャワで、オランダ軍と同じ周波数で「降伏する」というニセの放送を行って作戦を有利に導いた。同じ年最初の東京空襲が行われたが、「被害は軽微であった」とニセの放送を流していた。そのとき英語放送を担当していたのは、今徳島県に住む、住友公一(88歳)だった。日本語を英語に翻訳する内容は人気であったが、彼にも召集令状が来る。しかし軍部やNHKなど三者は「余人を持って代え難い仕事をしている」として招集されずに今までと同じ翻訳の仕事を続けることになる。
▼アメリカ人に人気があった放送は「ゼロ・アワー」という番組でアイバ・戸栗という女性が担当した。しかし声は悪く心配されたが、スラングを使ったジャズのディスク・ジョッキー放送は米兵の間でも人気となり、後に彼女は東京・ローズとして活躍するようになる。しかし基本は米兵の戦意を喪失させる事が目的であった事は言うまでもない。しかし日本語の放送はアメリカで受信されたが、日本人は短波放送の受信(短波ラジオを持つ事も)は禁止されていたので、その効果はあまりなかった。
▼アメリカは1942年からVOA放送を始める。シロタはアメリカの当時の考え方は日本のプロパガンダ的なそれと違い、西洋文化を知らせる事を目的としていた。また厭戦化を植え付けようとしたが、短波受信機を持つ一般人はいなかったので効果はなかった。
▼戦争末期になると日本に数年滞在した事があるM・ザカライス大佐が放送に登場して、アメリカのメッセージを伝えるようになる。彼は自分がマイクの前に立てば10万人、いや100万人の人びとの命を救うことができると自負していた。そしてその交渉内容をメッセージに含ませた放送は敗戦まで3ヶ月間続けられた。それに対応したのは同盟通信海外局次長だった井上勇だった。彼は政府の意向をでザカライスの言う「無条件降伏の条件」を探ろうとしていた。つまりザカライスの言葉にある「主権と独立」という言葉の中には「国体が護持」が含まれているかどうか、の一点である。
▼こうしてラジオ放送は最初は戦争の道具として、最後は交渉の窓口として使われることとなった。もっと面白いエピソードもあったが、時間の関係で省略する。必要な方は眠らずに起きてごらんになることをオススメする。

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