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January 31, 2011

NHKHV「「兵士たちの記録/陸軍24師団」を見る

▼体調が戻ったので土日は映画館に通うことができた。一本はブルース・ウィリスの「RED」期待していかなかったが意外と面白かった。昨日は今週の「週刊金曜日」で紹介されていた、「バーレスク」である。これは今週の土曜に終わってしまうので、時間がある人はご覧頂きたい。二つともギンギンのハリウッド映画だったが、やはり脚本がいいと見応えがある。詳しくは明日以降にご紹介する。きょうの授業は屋外実習なので暖かくしていかなければならない。
▼29日NHKHV朝8時、「兵士たちの記録/終わりなき持久戦の結末/陸軍24師団」陸軍24師団とは北海道の旭川に本拠地を置く部隊で1万8千人いて、当時寒さに強いとされて満州に派遣されていた。ところが参謀本部が沖縄で米軍の血をより多く流させる。という決定の元、19年8月急遽沖縄に派遣される。兵士たちは初めて見る南国の風景にこんな綺麗なところは、初めて見ると感激した。また沖縄人々も「大和の兵隊さん」と大切にしてくれ、沖縄の唄を教えてくれたりした。所が米軍は20年3月に54万人の艦隊を派遣した。艦砲射撃は激しく、死亡した兵士の死体はすぐにウジが涌き3、4日で白骨化してしまう。
▼沖縄出身の兵士、伊礼さんは200人の米兵と対峙させられるが、手榴弾しかもたされなかった。そこで1個師団が(2500人くらい)対決するが小隊は全滅してしまう。大本営は皇王の防衛を主眼(つまり敗戦後も皇室の存続)に置いていたので、米軍の消耗と出血を促す以外の目的はなかった。兵隊は地下壕に潜って夜になると切り込み決死隊を突入させる以外の攻撃はなかった。それはとりもなおさず、死と同じ意味を持っていた。とくに沖縄の兵隊は郷土の沖縄を守る義務があるからと、挙手を求められたので決死隊の募集に手を挙げざるを得なかった。戦争にあって下っ端の兵士は常に犠牲を強いられた。
▼それでも大本営は「対規模な攻勢に転じる」として、首里から接近戦をするように要求して来た。それも作戦実行のたった6時間前の事で、思いつきとしか考えられないような作戦だった。兵士たちにとって、まさに飛んで火に入る夏の虫のようだった。だからそれの作戦は失敗し、責任の所在も不明になり2日で中止になった。大けがをした兵士たちは麻酔もないまま、「痛い、痛い」と叫びながら足を切断する手術をせざるを得なかった。手術ができない、あるいは中程度の怪我の兵士は放置されたままだった。しかし半数以上の兵士は手足がもげた状態であった。
▼ところが沖縄を指揮していた牛嶋中将は南部に転戦するとして、摩文仁に撤退する事を決めた。このとき動けない兵士には青酸カリが手渡される。また従軍看護婦は青酸カリを注射して回る。3名に注射したという元看護婦が登場したが、「栄養剤」だと偽って注射したが、命をすくわなければならない自分がそんな事をするのはとても惨めだったと述懐していた。ただ戦後は「軍医からの命令だったから仕方なかった」と自分自身を納得させて生きて来た。
▼ガマに潜伏している民間人を追い払ったことも事実だが、民間人がいるとそこには軍人がいると米軍に気づかれてしまうからだ。それに沖縄の方言でしゃべっていると、自分たちの情報が敵に流れたり、勝手に投降したりするとまずいので「沖縄語をしゃべった者はスパイ(間諜)として処分するという通達が出た事も確かである。牛嶋は自決し「最後の一兵に至るまで出血を強要すべし」という言葉を残した。しかし残された人々にとって、この阿鼻叫喚のガマを見て地獄とはあの世ではなく、この世にあると思えた。
▼先の伊礼氏は戦争はいつも弱い人が苦しむ、戦後65年たったが今も一度として戦跡に行ってみようという気持ちは起きない。沖縄は日本兵(つまり大和の)が上陸したから巻き添えになった人が増えたのだ。沖縄の人はあの戦争で9万4千人が死亡したが、それは本来死ななくてもよいはずの人たちだったのだ。

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January 30, 2011

ラ・クンパルシータと「タンゴ・レッスン」

▼NHK1ch1月20日の午前零時から「ことのは」という小山薫堂が脚本を書く番組が始まった。深夜なのだが録画して見ているがとても面白い。日本語は恋することから生まれたとして、サブタイトルは「恋する日本語」となっている。ホステスは余貴美子で28日(厳密には午前零時を過ぎているから29日)のゲストは佐藤江利子だった。男運のない佐藤が店を訪ねると、余から「悪い男の霊がある」と言われる。そして【喃喃】(なん‐なん)ぺちゃくちゃしゃべるさま。という言葉と【気宇】気がまえ。心のひろさ。の意味を解説する。さらに万葉集2395の中にある「たまゆら」を読んだ詩を紹介する。そして玉響とは万葉集の「玉響たまかぎる」を玉が触れ合ってかすかに音を立てる意としてタマユラニと訓じた) ほんのしばらくの間。一瞬。かすか。の意味があるとする。
▼万葉集は「玉かぎる昨日の夕見しものを今日の朝に恋ふべきものか」である。更にイタリアにはナンパ塾があ、イギリスは日照が少ないから日焼けサロンでもてるように努力するという。さらに一番女性に優しいのはアルゼンチンだとして、いきなり「ラ・クンパルシータ」が流れて来る。佐藤は「じゃあたしアルゼンチンに行く」というが、余に「地球の裏側だから長旅に耐えられない」と引き止められる。
▼さてここまで話を引っ張ったのは「タンゴ」の事を書きたかったからだ。映画とタンゴで印象に残っているのは、、ベルナルド・ベルトルッチ監督1970年の作品「暗殺の森」で、ドミニク・サンダ女性2人で踊るシーン。次は「セントオブウーマン」で盲目の将校役アル・パチーノ。「レッスン」の教師役のアントニオ・バンデラスがある。この3本のタンゴを踊るシーンを見ているだけでゾクゾクしてくる。日本では「仁義なき」シリーズでヤクザのボス役の小林稔侍バーで踊るシーンがあったがちょっと違和感があった。しかし何と言ってもサリー・ポッターの「タンゴ・レッスン」であろう。これは13年前の映画でたしか28日に閉館した恵比寿ガーデンシネマで見た記憶がある。主人公はフランスに住む女性で、タンゴを作品化しようとしてブエノスアイレスに来てシナリオを考える。最初のシーンで男女がステージの上で踊るのは「el flete」である。次にサリーがタンゴの教師と踊るのはピアソラの「ズム」、次にどこかのレストランで太った男性と踊るのが、「ラ・クンパルシータ」になっていた。そして最後に雨のブエノスアイレスで2人が踊るのは「milonga mis Amores」となっていた。
▼しかし一番面白かったのは、わたしたちが行った例のカフェに、サリーも行っていることだ。そしてコーヒーを注文してウェイターに「まだ何か?」と聞かれサリーは両手で三日月のマークを作ると、彼はうなずいて「クロワッサンね」と分かる場面は笑えた。つまりサリーもイギリス人という設定だから、スペイン語は通じなくて手真似会話をしていだのだ。

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January 29, 2011

ネットで日本の政変はおこらないだろうな。

▼薬があと3日になったので、仕事の時間のすき間でいつものクリニックに行く。予想通り客は少なかった。担当医が「どこかに行っていたのでしたっけ」というので、南米と答える。それにしてもトランジットのヒューストンで食べたサンドイッチはまずかったというと、「あのターキーサンドは例えようもなくまずい」と言う。医師はグルメの様で体重もかなりありそうだ。3年前だったが「チュニジアに行く」と行ったら、「千駄ヶ谷にチュニジア料理の店があるから、予行演習で寄っていくといい」と教えてくれた。
▼前の日支払いでいつもの銀行に行って順番を待っている間に女性週刊誌があったので見ていると。A木とO桃の事が出ていた。O桃の経歴が書いてあって、東京G語大のポルトガル語学科を出ているという。何かとてももったいない事をしている様に思えた。まぁそれはどうでもいいことだ。毎日みなさんがどんな検索用語でこのブログを見て下さるか、解析している。1日前には「プリンセスエビータ」という言葉があって、何故なのかと首を傾げた。ちょうどエビータの墓を書いた日で、欄外に「プリンセス」という投稿があった。Googleの検索はそれを「用語」にしていた。何と「プリンセスエビータ」とは競走馬の名前だったのだ。
▼映画俳優の名前を書くとそれが急に増える。チュニジアやエジプトや違ってSNSで呟いたり、ツイッターで政治に関係ない事が氾濫しているうちは、日本はネットを通じた政変などあり得ないと思う。身体を張って「エジプト大使館に行こう」とか、「首相官邸に行こう」と呼びかけないで、コタツにあたってキーボードを叩いて呟いているだけでは、世の中は何も代わりはしない。これから映画館に行くので終わり。

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January 28, 2011

◇「その街のこども 劇場版」を見る。

▼連載ものは自分で最初に、○回で終わらせると全体構想を決めて書かないと、いつまで立っても終わらない。この間NHKHVのベトナム戦争もの2本や地上波では面白い番組が沢山あった。先週の「愛川欣也パックイン・ジャーナル」も消費税がテーマの一つになっていて面白かった。機会があったらご紹介する。
◇「その街のこども 劇場版」新幹線に乗って広島に向かう列車の中。いやに後ろ姿の格好良い女(佐藤江梨子)が降りてゆく。会社の上司は部下の勇治(森山未來)に「足が長くて良い女だなあれは日本人じゃないね」と呟く。列車が新神戸に停まって発車ベルが鳴る瞬間、勇治はバッグを掴んで脱兎のごとく新幹線から飛び降りる。上司は「彼女の電話番号かスリーサイズを聞き出せよ」と念を押すことを忘れない。女はこどもの頃に阪神大震災を体験し、いまは東京で暮らすと美夏。勇治もまた小学生の頃に災害を体験していた。
▼美夏は大きなバッグを持っておばあちゃんの家に向かうという。しかしそれは4駅区間もあり到底歩いて行ける距離ではない。しかし既に終電は終わってしまっている。最初はナンパか逆ナンパかと思っていたが、2人は話しあううちに共通点があることが分かる。それは16年前に神戸で被災していることだった。彼らは「追悼のつどい」が行われる前日の1月16日深夜に神戸で偶然知り合う。長い時間をかけて町を歩き祖母の玄関先で荷物を届けた美夏。再び歩き初めある家に立ち寄って挨拶したいが、勇治に2時間ほど待っていてくれないかと頼む。「こんな寒い公園で?」という勇治。美夏はマンションで電気が灯っている一つの部屋を目指す。
▼そこは同級生が母親と地震で、押しつぶされた家だった。夜中にドアベルを押す「どなた?」という残された父親の声。部屋の様子は伝わって来ないが、部屋を出て公園に戻ってきた美夏は部屋をふり返ると、父親がずっと手を振っている。娘がもし生きていたらこんな年頃になったと感慨深かったのだろう。美夏も涙がこぼれて止まらない。美夏は勇治と震災15年目の朝を迎えるまでの時間を共に過ごすことになる。勇治が今やっている仕事は建設施行会社でエコ指向で地震に耐えられるマンションを建設しようとしている。しかし上司は100年もったとしても、誰が俺たちの仕事を理解してくれる、とやや投げやりである。
▼演じている2人の俳優をは現実に阪神大震災を体験している。美夏は今まで何度か来ようと思っていたが心の傷に向き合うため、今年こそ「追悼のつどい」に参加すると心に決めていた。勇治は明日のプレゼンテーションに間に合わせるため、とにかく朝一番の新幹線に乗らなければならない。出張の途中で急に神戸に降り立っただけだと言う勇治。美夏は勇治と別れ「117」の数字を竹で作った慰霊の集まりへと足を向ける。父親が火事場泥棒の様に大地震で儲けた勇治。親友を失った美夏と全く異なる震災体験をしたふたりの間には、大きな溝が広がっているように見えた。しかし、その「追悼のつどい」に差し掛かったとき、美夏は勇治が長年抱え込んできた「地震に耐える建物を建てようとする」を実現しようとするとき現実との悩みを垣間見る。16年たって復興を遂げた真夜中の神戸の街を背に、これまで誰にも語ることのできなかったふたりの想いが、伝わってくる。東京写真美術館ホールで上映中。隣の恵比寿ガーデンシネマは残念な事に本日で閉館。

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January 27, 2011

南米世界半周の旅(14)最終回

Dankon
(カミニート地区にあったアズレージョの拳銃弾痕)
▼リオのガイドFさんから、マテ茶を飲む道具はアルゼンチンで買った方が良いといわれ、カミニートで購入する。わたしたちが歩き始めると、背の高い現地の不審な男が二人近寄って左手をだして「コンニチハ」と怪しげな日本語を使って握手を求めて来た。わたしよりかなり背が高い。下手に握手をして引き寄せられると、右肩から左に下げたバッグがっと抜き取らるかも知れない。それにからかっているかも知れないが妙に馴れ馴れしい。同行の3人は袖を引っ張られたり、何度も追いかけられた。旅の最後に何か盗られてもシャクなので逃げるようにして歩いた。わたしはここでゲバラのTシャツを一枚買った。アズレージョの弾痕はわたしが分析したところによれば、これは撃ち合いではない。38口径か9mmの拳銃で弱装弾を使って5~6mくらいの距離から標的にして遊んで撃ったものだと感じられた。
Ebitaboti
(エビータの墓碑銘)
▼レコレータ地区にある墓地にも行った。ここはお金持ちが大理石を使って豪華な墓を建てている。しかしもの凄いカネを使って建てた墓も手入れをしないとペンペン草が生えたり、錆だらけになっていた。ここに埋葬されている有名人の一人にエビータがいる。その回りにはカメラを抱えた多くの観光客がいた。「エビータ」(WOWOWで2月24日午後7時から放映される)はマドンナが映画に出てから、日本では有名になったと思う。彼女はペロン大統領の愛人から大統領になった人物である。そして貧しい人に支援するなど活動が評価されている。しかしそれは自分の懐から出たカネではなく、国庫のカネである。それでも貧しい人からの評判が高かった。
Kikanhei
(フォークランド帰還兵の抗議キャンプ)
▼空港には早めに着いてチェックインする。コンチネンタルの検査は厳しい事で有名である。ガイドさんは「ここから先は通訳やガイドのわたしも入れない。スペイン語が話せないと特に厳重に審査される」と言われて別れる。「スペイン語か?英語か?」と言われ英語を選択する。しかし早口で半分以上理解できない。すると荷物検査場でバッグをひっくり返し、裏側まで念入りに検査された。よく見ているとリチューム電池を探しているようだった。さらに飛行機に乗る直前にもう一度検査がある。係員がゴム手袋を付けたので、裸にされて身体検査でもされるのかと思ったが、今度は機内持ち込みのバッグに病原菌などが入っていないか念入りに検査された。
▼検査ついでに帰りのヒューストンの税関では、指紋と写真をもう一度撮られた。更にわたしだけが別のコースであの全身スキャナーにかけられた。ズボンとTシャツ一枚になると、「マネーベルトはないか?」と聞くので「ノー」というが、さらに「マネーベルトとブリーフ」という言葉が聞こえて来た。まさかズボンを脱げという事でもないと思ったが、ズボンに手をやると女性税関職員は「オーノー」と苦笑いをした。頭に後ろに手をやってちょっとホールアップ風の格好でスキャナーは一瞬のうちに終わった。これも何故わたしだけこうなったのか分からない。しかし見ていると指紋を取る係員が用紙に何か書き込んだ人物だけ全身スキャナーに送られているようだった。
Minato
(「母を訪ねて3000里」のマルコ少年が降りたとされる波止場)
▼アルゼンチンとはどんな国なのか?わたしが見たところ街にはホームレスの人々が日本くらいの多さで段ボールの生活をしていた。ガイドさんの話によれば彼らにも国から、最低限の生活保障をするカネは出ているという。乳飲み子を抱えたホームレスの女性も路上で生活していたが、「あれは何?」と聞くと彼らはバルト三国から流れ着いた人々だという。リオのガイドFさんによれば「リオは暖かいので1年中ホームレスは海水で身体を洗ってそばのシャワーを浴びているから、世界で一番清潔なホームレス」と言っていた。ブエノスアイレスには観光用の路面電車が走っていた。あれも市民の反対を押し切って作られた長さたった1kmの実用性のないものだという。帰国して先週の日本で発行された新聞を読んでいたら、「アルゼンチンは脱税がもっとも多い国」だと出ていた。美容整形会社などが、北米からやってきた客から得た所得を誤魔化しているのだ。
Daitouryo
(大統領宮殿前で)
▼わたしは駆け足でアルゼンチンを丸約30時間滞在したから大きな事は言えないし、経済学者でもない。しかしそこで見聞きしたのは2001年にアルゼンチンが経済破綻した事からみてもかなりいい加減な国であると思えた。さらにガイドさんは、ある金持ちがパタゴニアの先住民を皆殺しにして手に入れたのが、現在のパタゴニアであるとも語っていた。わたしには、それがアルゼンチンの軍事政権下で、3万人ものデモ参加者や民主活動家がそのまま行方不明になったままだという事実と重なって見えた。しかしヨーロッパの雰囲気を持ったアルゼンチンは、できれば一人で2週間くらいもう一度行ってみたい国である。いつも旅ではいくつかの別れと、たったひとつの出会いがある。そんな事をヒューストン空港で感じながら帰国した。
▼帰国後14日間にわたって連載をお読みいただきありがとうございました。メールで励まして下さったみなさんどうもありがとうございました。もし執筆した他にご質問等がありましたら、お寄せ下さい。知っている限りの事はお答えします。このブログで南米の記事は約2万8千字あります。わたしは地方新聞の連載で、M氏と交互に担当する3回分を執筆することになっています。それは1回分約1100字となり、一回目分はすでに送稿済みです。どこをどう取捨選択するかが悩ましいところです。(おわり)

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January 26, 2011

南米世界半周の旅(13)

Sanpo
(ガイドさん中央、と公園を散歩する)
▼2週間ほど前に行ったブラジルのリオデジャネイロ州では、豪雨により1200人ほどの死者と行方不明者がでているという。お気の毒な事である。昨日書いた「不倫と南米」を図書館に行って再び借りて来た。1時間ほどあれば読める、アルゼンチンがテーマになったエッセイ集である。本書を読むと、ああ、あれも書けば良かったとか書き残した事があれこれと出てくる。最終日は午前中はフリーである。M氏を訪ねて来た友人のMS氏からブエノスアイレス市内に詳しい地図をお借りした。まず、昨晩トップページでご紹介したコロン劇場に向かった。劇場は空港からホテルに向かうときも見たが、分かりやすい場所にある。横断すべき7月9日通りと呼ばれるメイン道路が、何と両側16車線で見たところ300mほどもある。Hさんは横切るのに一旦途中で休まなければならなかった。
Toska
(コロン劇場トスカニーニの銘板)
▼コロン劇場では何やら3月までストライキをやっているという事で、組合員が始業前に入り口でピケットを張っていた。劇場を一回りすると、トスカニーニが演奏したというレリーフが目に入った。それからMS氏が教えて下さった有名なカフェに行かねばならない。それは1150年の歴史がある、ブエノスアイレス最古のカフェ「カフェ・トルトー二」である。書いて下さったのは手書きのメモで、現実の地図上に合わせてみるとよく分からない。劇場の受付をしていた女性に道順を尋ねる。開館間際で忙しかったにも関わらず、新説に教えて下さった。大きな通りを4本行って、地下鉄の通りを左折せよ、という事だった。何度か歩いている人に聞きながら15分ほどで辿り着いた。
Cafe
(カフェの入り口)
▼店の作りはシックで家具類は重厚である。問題の飲み物は適当に頼んだ。しかし肝腎の揚げパンの名前をはっきり覚えていなかった。後でガイドさんにお聞きしたら「チュロス」というのだそうだ。しかし「ロ」の発音は巻き舌で日本人にはできそうにない。年配の店員さんは最初「分からない」と言ったがしばらくして「クロワッサン」を持って来てくれた。これはどう見ても現地でいう「メディアルーナ」というクロワッサンである。意思は通じなかったが、このパンで良いことにした。店の中にはカフェに関連した資料が沢山展示されていた。
▼再び元に戻ろうとしたがその道は大通りと並行になっていない。迷ってしまうとまずいというM氏の提案で元に戻ることができた。M氏は道歩きとか、大きなホテルでも一回通ったら決して道を間違えない人である。わたしなど方向音痴で国内では時々、同じ所をグルグル回って目的地にたどり着かずにいるので家族からは信頼がない。
Crowassan
(どこからどう見てもクロワッサン)
▼吉本ばななは、ブエノスアイレスの町を「はじめて見たブエノスアイレスは、ヨーロッパの街並みに確かに似てはいた。しかし、そのに息づく濃厚な南米のムードは至るところから漂い出て、すべてを覆いつくしていた。」と表現する。次に行くのはフロリダ通りである。ここは一番賑やかな通りで色々な店が建ち並ぶ。わたしは南米の地図と、タンゴとバンドネオンのCDを数枚買った。昼の直前にマリアさんが迎えに来てくれたので、荷物を一式もって観光に出掛ける。5月広場を経由して、昼食で来たのはアサード(牛肉の炭火焼き)の店だった。もう店先には動物を焼いている様子が繰り広げられている。マリアさんは「飲み物どうしますか?」というので「昼は酒を飲まないので水を」という。「いいんですか?日本のお客さんはみんな昼からビールを飲み、それが終わるとワインを飲んで眠ってしまうので、観光どころではなくなってしまいます」という。ステーキも日本人向けに小さく300gにしてあるというが、厚さは写真でご覧の様に3cmほどはある。わたしもM氏も脂身は外してやっと3分の1ほどだけ食べた。
Daiseido
(大聖堂の内部)
▼大統領宮殿はあたらしく建て替えたものだった。その前には20年ほど前のフォークランド紛争で出征した兵士が、待遇の改善を求めて立てこもっていた。時々猛烈はデモを展開して機動隊ともの凄い衝突を繰り返しているという。20年たってて政府に抗議デモをしているのも凄いが、鎮圧の方法も半端ではないらしい。隣にあるカテドラルメトロポリターナ(大聖堂)を見学する。そしていよいよタンゴ発祥の地であるカミニートへと車は進む。建物が色とりどりのペンキで塗られているが、これは当時町に住む人がお金がなかったため、船で余ったペンキを塗ったため、このようになったと伝えられている。色々な店もあるが治安が良くないという。昨日の晩MS氏から聞いた話でも、数日前に日本のJICAの女性がバッグをひったくられそうになり、取られまいとして大けがをしたという新聞記事を見たという。わたしたちは土産はここで買わねばならないし、アズレージョには拳銃の弾痕らしき跡があったので緊張して車を降りた。

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January 25, 2011

南米世界半周の旅(12)

Hutari
(タンゴのレストランにあったゲバラ左とニューベリー右の写真、二枚を合成した。)
▼日曜日深夜にNHKHVでベトナム戦争を描いた「ハーツ&マインド」が放映された。一度映画館で見ようと思ってながらずっと見る事ができなかった。戦争を「肯定する側」は弾を撃つ側でしかモノを見ていない。それが証拠にアメリカの戦争映画は空襲を受ける側からの映像はない。ところが日本やドイツの映画は爆撃の下から撮影している。ここが根本的な違いである。「帰還兵」の多くは国のために戦ったと「栄誉」を持って迎えられる。しかしそれも五体満足な兵士だけである。下肢を失った兵士、ベトナムで子どもを殺害された親は登場しない。最後にでてくる米軍の爆撃機で、ボール爆弾を投下していた乗員の苦悩は戦争をするすべての兵士が知らなければならない事実である。
Hanayasan
(街角の花屋さん)
▼吉本ばななの「不倫と南米」という小説があり、アルゼンチンへの旅を書いている。巻末に吉本はアルゼンチンに行こうとしてもツアーがない。そこで旅行社に特別に頼んで、旅行プランを作ってもらう。彼女は幻冬社の有名な編集者や友人10人くらいと、14日間でアルゼンチン旅行に出掛ける。お金持ちの彼らのことだから、おそらく添乗員も付いていったのだろう。昔の小説なのでわたしが覚えているのは、イグアスの滝の遊覧飛行の場面だけだ。
▼送迎のマイクロバスはあちこちのホテルに立ち寄って客を集めながら、約30分でそのタンゴのライブハウス「ラ・バンタナ」に着いた。バスは「14番」であるとボール紙に書いた数字を何度の確認させられた。席は中央後部で座るとメニューが来るが名前から何が出てくるか見当もつかない。前菜から一つずつ適当に選んでゆく。Hさんがスープのところでサラダと二つ選ぼうとしたら、どちらか一つを「choose one」と言われる。無事選び終わって演奏が始まる前に室内を探検してみた。前方にはアルゼンチンの有名人のポートレートが飾ってあった。舞台にもっとも近い位置に「ゲバラ」がいたのは嬉しかった。次がアルゼンチンでもっとも有名なパイロットのホルヘ・アレハンドロ・ニューベリーだった。彼の名前は名前はブエノスアイレスの第2の空港、ホルヘ・ニューベリー空港に命名されている。あとは知らない人物が多かったが、当然エビータもいた。ステーキが出て、次に何やらソースが2種類出された。しかし一つがどうやって使うのか分からない。わたしはかなりデタラメな英語で「how use this sauce?」と聞いた。するとウェイターは「これ」と一種類の肉を指さしてくれた。
Tangomise
(翌朝撮ったタンゴの店)
▼演奏は南米のフォルクローレの様な曲から始まった。舞台では一組、二組とタンゴを踊るカップルが次々と増えてゆく。なかにはエビータの一代記の様な話も入っていた。料理は肉料理がメインだったが、ワインは美味しく2本も飲んでしまった。最後に登場したのはバンドネオンの大御所セルソ・アマトだった。淡いブルーのブレザーを着て登場した彼の音色は優しくホール全体に広がってゆく。さらにアマトに合わせて演奏する2人のバンドネオンを巧にリードしてフィナーレとなった。タンゴはそれほどアクロバットなものはなかったが、本場のタンゴを十分堪能することができた。演奏が終わるとM氏が「店員さんがなにかくれた」と言う。なにをくれたのかと思ってそれを手に取るとビニールでできた勘定書のバインダーである。ガイドさんにチップを渡すように言われて来たが、いつ渡して良いか迷っていた。みんなこういう高級な店には慣れていないのだ。1人1ドルずつ合計3ドルのチップをバイダーに鋏んで渡すと、ウェイターから「サンキュー」という返事が返って来た。
Tangoporteno
(大きなタンゴショーの店PORTEPO
▼足下はふらついていたが、「14番」のバスはちゃんと見つける事ができた。アルゼンチンだけでなく南米のこういう店がオープンするのは午後9時過ぎからで、終わるのは午前零時を過ぎてしまうのが一般的だという。Hさんは泊まっているホテルの目印をちゃんと覚えていたので迷うことなく帰る事ができた。時間は午前零時を過ぎていて、かなり飲んでいたが、「乾杯」を省略して眠る事はできない。冷蔵庫に冷やしておいた「ハイネケン」ビールで乾杯した。しかしタンゴの店でワインを2本も開けてしまったので、事前に買い込んだワインをさらに飲もうという気持ちはわいてこなかった。このワインはみなさんのお勧めでわたしがいただく事になった。しかしどうやったら無税で持ちかえる事ができるのか分からない。翌日マリアさんにお聞きすると、手荷物にすると申告が面倒なのでバッグに入れてしまえば良い、とおっしゃる。そこで靴下を3枚重ね、さらにTシャツでくるんだ。お陰で割れずに日本国まで持ちかえる事ができた。
▼ホテルのエアコンは利き具合が良く、寒いくらいだった。そのため明け方にはスイッチを切らねばならないほどだった。こうして南米最後の夜は更けていった。しかし帰国途中ヒューストンを飛び立ってから、毎晩飲んでばかりいて南十字星を見るのを忘れてしまった事に気づいた。これはあと数年後にボリビアにでも来るチャンスがあったら、そのとき見ようと思った。この南米の旅の後2回で終わりです。毎回どのように作っていたかというと、まずエディターで下書きをしてブログに張り付けます。次に画像ファイルから文章にあった絵を探してリサイズします。画像を組み合わせて登録してから文字校正を2、3回していました。

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January 24, 2011

南米世界半周の旅(11)

Iguasuhotel
(イグアスのホテルのフロント、右はガイドのR氏)
▼帰国後時差ぼけが中々治らない。現地ではM氏に強壮剤を頂いたりした。しかし1月4、5日と仕事の挨拶回りをして、南米に行って何日か泳いできた。だから帰国後「今年もどうぞよろしく」と言われてもピンと来ない。実際の季節と体感季節が一致しないので困っている。東回りがこんなに辛いとは思っていなかった。それも身体はどうやら元通りになって、あとは精神面の整合性をとるだけだ。昨日はマンションの管理組合の会議もあったが「委任状」を出して恵比寿東京写真美術館の中にある映画館で「その街のこども/劇場版」を見て来た。これはNHKで放映された阪神大震災がテーマで森山未來と佐藤江利子が出演する作品に+αして劇場版にしたものだ。
▼2時間ほど待たされて急にチェックインが始まった。機内ではiPhoneを使っている人もいるが、パーサーに見せると「OK」と言ってそのまま使って入る人もいた。もちろん携帯としてではない。あと静かにキンドルで読書している人もいた。ところが目の前に恋人らしきカップルが座席を隔てて座っている。女性はベネロペ・クロスを若くしたような、びっくりするような美しい人で、わたしと同じ位置の後部座席に座っている男と話をするとき首を傾げてのけぞりながら、フライトの1時間半ほどの間ずっと話続けていた。こういうのはかなり目の毒である。
Kinaishoku11
(機内食は簡単だった)
▼ブエノスアイレスの空港には清楚な気配りのできる美人マリアさんが迎えに来てくれていた。祖先は鹿児島生まれで彼女は4代目になり、当地で医師と結婚しているという。マリアさんにイグアス空港の事を話をすると、「アルゼンチンの交通機関の遅れは日常茶飯事で、4、5時間遅れることは当たり前。遅れても言い訳や説明は一切ない」、との事で唖然とした。アルゼンチンで思い出す映画はまず1997年の「ブエノスアイレス」であろう。:トニー・レオンと今は亡きレスリー・チャンが出演する同性愛を描いたものだった。内容はすっかり忘れてしまったが、パタゴニアやイグアスの滝が出ていたように思う。次が昨年3本も公開された、「瞳の奥の秘密」それに「ルイーサ」これは一時期渋谷「ユーロスペース」映画紹介欄にわたしが書いたブログがリンクしていた。そして「アルゼンチンタンゴ伝説のマエストロたち」があのコロン劇場を舞台に繰り広げられた。なぜ1年間にアルゼンチンの映画が3本も紹介されたのか分からないが、いずれも良い作品だった。ところがアルゼンチンに滞在している人にお聞きしても、その映画の存在をご存知なかった。
Buehotel
(ブエノスアイレスのホテル街)
▼車の中で注意事項を聞きながら50分ほどで市内の中心部にあるホテルに着く。これぞ今回の旅行で銀座にあってもおかしくない、立派なホテルだった。ホテルの目の前に中国人が経営するスーパーマーケットがあって必要な日常品はここで買うように言われる。さらに夜のタンゴショーは各国人混載の車が迎えに来るので乗り降りする車を間違えないようにと指示をして帰っていった。わたしたちはスーパーで例の「us doller ok」と念を押して買い物をする。しかし発音は「ユーエス、ダラー、オーケー?」と言わないと全く通じなかった、「us」を抜いてもレジの中国人女性に「?」と首を傾げられてしまう。そこでそれぞれマテ茶を大量に買い込む。さらに今晩の乾杯用にワインとハイネケンビールを3本買った。
▼実はブエノスアイレスにはM氏のお友達が日本からお孫さんの面倒をみるために1年間滞在して「ちょっとアルゼンチン」というブログも書いておられる。M氏は到着するとまずホテルの電話で、MS氏の携帯に「ホテルに着いた」と連絡を入れると「40分ほどで来る」というご返事だった。MS氏の息子さんがアルゼンチンの女性と結婚し、お孫さんができたので手伝いに来ていらっしゃるのだ。といっても観光ビザなので3ヶ月ごとに近隣の国に一度出国して、再入国するという面倒な手続きが必要になる。そのたびに帰国の日時を指定していない航空券のチケットを延長する。その費用がバカにならないとおっしゃっていた。フロントに座っているとMS氏ご夫妻が見えた。わたしは初対面なのだが、M氏とは某学園時代の旧友という仲であるという。詳しくはM氏の連載に譲る。ご夫妻はアルゼンチンのみずみずしいメロンを食べやすいように切って持って来て下さった。わたしはご夫妻が日本食に飢えていると聞いていたので、持ってきた日本の非常食と抹茶ラテ、それに饅頭などをプレゼントした。
Kuukoube
(やっと到着したブエノスアイレス空港)
▼お話は1時間ほど続き、ブエノスアイレスでぜひ行った方が良い場所やカフェをご紹介して下さった。帰り際わたしの携帯が不通になっているのを知り、「奥さんに伝言ありましたらメールしておきます」とおっしゃって下さったので、携帯は通じないが予定通りに帰国するというメールをお願いした。そうこうしているうちにタンゴショーに行くためのドライバーが迎えにやってきた。そして私の名前を呼ぶ。わたしのパスポートは「u」は抜くように発給担当者から言われているので、外国人が言うと「東風ふかば、思い起こせよ」風になってしまう。タンゴはカメラでの撮影は禁止で見つかると取り上げられるというので持たずに車に乗り込んだ。

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January 23, 2011

南米世界半周の旅(10)

Asayake
(イグアスの朝焼け)
▼イグアスも朝は7時半に迎えが来ることになっていたので、6時半に夕べのレストランに行く。朝焼けが綺麗だったのでホテルの前の道路に出てみたら、やはりカンボジアのシムリアップの朝に似ていた。チェックアウトを済ませてまっているように指示された。わたしのM氏の部屋は夕食とビール1本が25ドルだった。ところが1人部屋だった、Hさんの料金は75ドルだった。明細書を見て「おかしいよね」と話していると、フロントの女性が「wrong」と言っているのがきこえた。おお1年間NHKの基礎英語をやってきた成果がでているではないか。フロントでは3人分を合計していたのだ。50ドル返金してもらって、10人乗りくらいのマイクロバスに乗り込む。なぜ早い迎えかというと、アルゼンチン側のイグアス公園の入り口は午前8時半に開く。それまでに通関の手続きなどを全部効率よく済ませようとガイドのR氏は考えていた。
Kokkyu
(三国の国境モニュメント)
▼速報でもお知らせした、アルゼンチン、ブラジル、パラグアイの3国国境に行くとまたまた日本人のグループが来ていた。中型バスにもそのように書かれたものがあった。アルゼンチンの通関手続きは、ガイドさんが全員のパスポート係員に見せるだけで、下車せずに終わった。地元に住む人はかなり長い列を作っていた。下手をするとここで待たされることになるのだ。この辺では道路に信号はない。そのかわり交差点の手前に大きな溝が二本掘られている。車は必ずスピードを緩めなければ通過できない。ガイドによれば信号を作る費用と、それが守られる可能性がない事などを考えると、この溝が一番確実であるという。公園のアルゼンチンゲートには15分ほど早く着いた。それから観光用のトロッコ列車に乗って20分ほどでイグアスの滝を上から見るポイントまで進む。といっても終点から1・5kmは歩く事になる。終点には観光カメラ屋さんがいて、撮った写真をその場でプリントするサービスをしていて、どこの観光地でも同じだと思った。これは1枚5ドルとか言っていた。
Iguasar
(アルゼンチン側から見た悪魔ののど笛)
▼イグアス河の上に作られた遊歩道は尾瀬の、木道とは違い、すべて金網でできていた。そのため同行のHさんの靴底は歩いているうちに剥離してしまった。何ヶ所かそのポイントを移動して撮影ポイントを案内してもらう。なかには赤ちゃんを連れて来ている家族が見られた。しかし昨日のような若いタコの八ちゃんは1組もいなかった。別のポイントまで再びトロッコ列車で移動する。聞くとこの回りにはロシアの移民が来ていて、マテ茶の栽培をしているという事だった。車内には現地の日本語ガイドが3,4人乗っていて色々噂話をしていた。かつてはヨーロッパのガイドをしていたが、あちらは安売りで仕事にならない。ここで小金を貯めたら土地を買っておくことだ、という様なリーダー格の話にみんなうなずいていた。ここでは水が3ドルと観光地なので少々高めだった。「昼食はどうするか」とガイドが聞くので空港で食べるからと言って送ってもらう。
Pasta
(トマトのパスタ)
▼空港ではチケットの座席があるか確認して乗る場ゲートを指示される。そして最後にガイドから「勤務評定」の用紙をわたされたので、目の前に全部一番良い評価の「5」に丸をして渡す。「ではごきげんよう」とガイドは去っていく。問題は食事である。レストランはアルゼンチンなので当然スペイン語に切り替わっている。座ってすぐに「us dollar ok?」と念を押す。そのあとウェイトレスさんは中々近寄って来なかった。メニューを見ると「パスタ」らしき物があったので、「this same three」と頼む。すると「tomato?」と色々トッピングがあるというので迷わず「yes tomato」と答える。しばらくするとパンと一緒にトマトのパスタが届けられた。食べている最中に個別のレシートを持って集金して行った。わたしは帰る時に「指さしスペイン語会話」の「美味しい」(bueno)を指さすと、ウェイトレスさんはにっこり笑ってくれた。
Trokko
(トロッコ列車)
▼さて飛行機の出発は午後2時20分である。1時半頃までレストランで粘って搭乗受付の前で待つ。すると行き先掲示板のわたしたちの乗る便に「demolate」という文字が出て一向に受け付ける気配はない。一体何と言う意味なのだ、持参した辞書で調べても分からない。Mさんは勇敢にも女性係員の所に、日本語で聞きに行ったが、彼女は首をすくめて腕を折って手のひらを上に向けるだけだった。やはり地の果てでは日本語は通じなかった。しばらくしてわたしは意を決してチケットを見せ、つたない英語の単語を並べた。彼女の返事と単語から判断すると、飛行機は今から40分遅れて3時20分から搭乗を開始するというような意味だった。いったいアルゼンチンの航空会社はどうなっているのだろう。英語の遅れは「delayed」だからそれと同じ意味だろうと推測した。

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January 22, 2011

南米世界半周の旅(9)

Bakuhu
(大瀑布)
▼イグアスといえば速報にも書いたが、1987年の映画「ミッション」である。半年ほど前にこの映画をケーブルTVで見て内容をご紹介しているので、興味にあるかたはそれをご覧頂きたい。簡単に言えば1750年代、スペイン植民地下の南米・パラナ川上流域(現在のパラグアイ付近)を舞台に、先住民グアラニー族へのキリスト教布教に従事するイエズス会宣教師たちの生き方を描いている。宣教師はスペインの尖兵として派遣されてくる。しかし映画「アバター」の様に原住民の立場を理解し、母国に対立して立ち上がるという様な話だ。原住民の立場に立つのはデニーロで、イグアスの滝に十字架に張り付けられて流されるシーンは強烈である。
▼ガイドの様々な売り込みに対して、体制を建て直さなければならない。ただちに同行者2人と相談した。遊覧飛行は先ほど上空から見たから、あえてここで乗る必要はない。ラフティングは、全身ずぶ濡れになってホテルに帰るまで放置されるのか?これはNHKTVで何度も放映されたがら様子は分かる。そのためカメラをしぶきから守るビニールなども持参した。Hさんは「皆さんが行くなら行く」とおっしゃる。全身濡れて風邪でもひいて熱をだしたら、今後のスケジュールで寝たきりになってもつまらない。100ドルとは邦貨で8千円ほどでそれほど高いとは思わないが「止める」とガイドに話をする。彼は「せっかくきたのだから、乗ればいいのに」と、愚痴っていた。
Takinomae
(滝を前にした3人)
▼一言で説明するとイグアスの滝を下から望むのはブラジル側で、上から見るのはアルゼンチン側である。上から見るには国境を通過する面倒な手続きが必要だ。しかもブラジル政府に誓約書を出しているので行ったら再び戻れない。この日は4kmの道のりを歩くことになる。しばらく歩くと目の前に滝が全容を現す。ここでわたしはある約束を果たさねばならない。先月インドに行った友人とイグアスの滝に行ったら写メールを送る約束をして、事前にテストもしてきた。滝の写真をお送りすると日本時間で午前2時半頃だったが、「滝のしぶきまで鮮明に見える」とご返事いただいた。
▼Hさんは念のため登山用の杖を用意されたが、それは一切使わずに全行程を歩ききった。イグアスの滝の落差は80mで、日光の東照宮は90余だから日本の方が高さでは勝るが、水量は写真でご覧の様に言葉に言い尽くせないほどの迫力がある。下から滝壺にブリッジが延びており最先端まで行くと、あちらこちらで「タコのはっちゃん」みたいにチュウチュウとキッスをするカップルが出始める。イグアスを見ただけでそんな気分になるのかよ、と思ってしまう。滝壺を戻り始めると変な男に呼び止められ、同行のHさんと一緒に3人で写真を撮ろうという。しかしカメラを構えている男はふざけて中々アングルを決めようとしない。しかもHさんはそれに気づかず歩いて行ってしまう。わたしはその男たちに、何か詐欺のようなうさんくささを感じて、止めるのを振り切って脱出した。
Tokage
(イグアナの様なトカゲ)
▼滝の見学は最後にエレベーターでブラジル側の展望台に登って終わる。再び車に乗り込んでホテルに向かう。事前に「ショー」を申しこんでいたが、あいにく当地は日曜日でそれらはみんなお休みだという。さらにガイドブックで見ていたが、イグアス周辺は森の中で、店など一軒もない。途中ハンモックを沢山並べている店があったが、昼寝用なのか販売するのか見当もつかなかった。40分ほど走ってホテルに着く。ホテルは平屋二階建てでかなり広々とした敷地に立っていた。そのためフロントから部屋に辿り着くまでにかなり時間がかかる。かなり広いプールがあって出掛ける。リオのプールはホテルの屋上にあってバスタブを多少大きくした程度で、それとは別にジャグジーがあった。こちらは深さ2・6mの結構広いプールだった。2人の日本人はゴーグルとスイミングキャップを持参して本気で泳いでいるが、殆どの客はプールサイドで飲み食いしているだけだった。
Takitubo
(イグアスの滝壺)
▼わたしたちの部屋にはバスタブがあり、Hさんの部屋にはそれがなかった。2人がプールで泳いでいる間にそれを使ってもらうことにした。小一時間ほど泳いで部屋に戻ると、長旅の疲れがでて、2時間ほど前後不覚で眠ってしまった。途中にはスーパーなど一軒の店もなかったので、夕食時ホテルのビールの小瓶で乾杯することになった。このホテルは何故かカンボジアに行ったときの雰囲気に似ていた。そしてホテルのラウンジから廊下には、誰の好みなのか馬を人間の女性にデフォルメした絵が多く飾られていた。

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January 21, 2011

南米世界半周の旅(8)

Pan
(リオのホテル朝食のパン)
▼今朝のNHKラジオを聴いていたら北沢防衛大臣が「沖縄基地移転問題では誠心誠意対応する」と発言していた。わたしは北沢防衛大臣は日本語を知らないのか、忘れてしまったのかと思った。広辞苑によれば誠心は「いつわりのない心。まごころ。」誠意とは「私欲を離れ、曲ったところのない心で物事に対する気持。」という事になる。防衛大臣の立ち位置が違うのである。北沢の軸足は重心がアメリカにあり、心は日本の沖縄にない。
▼昨日のブログで湧々さんから「ブラジルは人種差別がない。なぜなら原住民は人間扱いでないあkら、と以前聞きました」というメールを頂いた。ブラジルの歴史はちゃんと勉強していない。しかしネットなどでみると、インディオと呼ばれる原住民は北アメリカから陸続きで移動して来たらしい。ところが1500年代にポルトガルやスペインが移住してきて病原菌をまき散らす。ヨーロッパ由来の疫病が免疫のない多数のインディオの命を奪った。現地ガイドの説明によれば「脳を溶かす病気」と説明していた。
Asaiti
(リオの朝市で西瓜を売る叔父さん)
▼翌朝はちゃんとホテルのレストランで朝食を食べる事ができた。入り口にはマイケル・マドセン風なマスターが立っており「ルームナンバー?」と聞かれる。どこの国のホテルに行っても大体ビュッフェ方式になっている。テーブルの上に見た事もない人工甘味料の様な物が置いてあって、不思議に思って眺めていると隣の席に座っていたブラジルの女性がコーヒーなどに振りかける仕草をして見せた。さっそくHさんはその通り試して見ると甘味が強調されるようだ、と言っていた。
▼朝食が終わって外に出ると日曜なので朝市が出ていた。主として果物だったが、写真を撮らせて貰うと、西瓜を売っていた叔父さんが、「オハヨー、スイカ」と声をかけて来たので驚いた。ガイドさんによるとサンパウロには日本人が多いが、リオは少なくて2万人ほどだから見つけるのはかなりたやすい。犯罪を犯して逃げるならサンパウロだと冗談を言う。ガイドさんが娘さんと山間部に行くと日本人の作っている畑は一目で分かるという。日本人のそれは几帳面に畝がきちんと揃っているからだ。だが娘さんはその意味が分からない。男性が日本語を少し知っていたもは、もしかしてその山間部で畑を作っている日本人と知り合いだったかも知れないという事だった。
▼朝の出発時間が早かったのは空港が混雑していて出発手続きに時間がかかるといけない、というガイドさんの心配りだった。空港に着いてチェックをすると「チケットの代金が入金されていない」という。ガイドさんは「Eチケットの控えを出して下さい」という。通常海外旅行の航空チケットは、Eチケットと言って購入するとパスポートをかざすだけで飛行機に乗れる。カウンターの男性は持って10分くらい引っ込んでいた。それはコンチネンタル航空との手続きの問題らしかった。ガイドさんは「こういう場合女性係員だとパニックになって交渉の余地がない場合が多い。男性係員で良かった」と語った。
Beach2
(コパカバーナの海岸の海水浴客)
▼ガイドさんは「途中curitiba(日本語の表記は数種類あり、一応クリチバにする)で飛行機は止まるが、降りずにそのまま乗って終点のイグアスまで行く事」と念を押され手を振って別れを告げる。しかし空港にやってくる客を見るとチョコレート色の肌をした美女の多く、その美しさを見ているだけでため息が出るほどだった。飛び立つと左手に海を見て南米大陸を南下する格好になる。海は輝いていた。回りは当然外国人ばかりでしかも幹線ではなくローカル線で英語の会話すらきこえて来ない。今回の路線ではここが一番気に入った。ふと1年前に読んだ旅の本で「旅先の列車で中島みゆきの『わかれうた』の、「途にたおれたて誰かの名前を、呼び続けたことがありますか」を聞いて涙が止まらなかったと書いてあった。今回わたしは色々な曲をウォークマンに入、この路線で確かめて見た。ただ中島みゆきの「わかれうた」よりも、ネーネーズの「I千鳥ブルース」の方がピッタリきた。「♪旅のやどりや-、雨宿り…」
Curitiba
(クリチバで途中下車?)
▼途中のクリチバでは半数以上の客が降りて30分ほど止まっていた。するとまた同じ数の客がドヤドヤと乗り込んで来た。わたしたちの席は一番後ろだったが、荷物の積み卸しでタラップが開いたので「写真を撮らして欲しい」(foto ok?)と(事前にポルトガル語もスペイン語も写真はfotoであることを調べて行った)聞くと「OK」と返事をされたので早速何枚か撮らせて貰った。速報で送ったブログの写真は再び舞い上がった飛行機が上空にいるとき携帯の内蔵カメラで撮ったものだ。やがて河の流は太さを増し、濁って来た。そしてイグアスの滝の眼下に見える様になってきた。空港を降りると今度はかなり無愛想な男が出迎えに立っていた。名前はR氏でガイドは15年やっているということだが現地生まれらしい。そして出迎えの車に乗り込むやいなや、自己紹介するよりも「イグアスの遊覧飛行が100ドル、ラフティングのイグアスの滝のしぶきの下に潜るツアーが100ドルと売り込みばかりするのだった。

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January 20, 2011

南米世界半周の旅(7)

Kirisut
(スカイツリーに降臨したコルコバードのイエス)
▼京成成田空港を出るときには身分証明書の提示を求められる。わたしは海外で運転しないので免許証は自宅においてきた。肝腎なパスポートはブラジルビザを取得するために旅行社に預けたままで、空港カウンターで渡すと言われている。その事情を係員に話して、旅行社から返してもらったパスポートのコピーを見せると「コピーではダメだ」という。同行のM氏は免許証を持っていたのでフリーパス。現地で集合したHさんは「持っていない」と言って通して貰ったという。わたしは住所氏名を書かされてようやく通過することができた。しかも不思議なのは同じゲートを5分ほど遅れて通過したHさんは証明書jを持っていなかったが、フリーパスだった。今どき成田空港を狙うテロリストなどいないと思うが、何か官僚的な扱いである。たしか民主党はこれを緩和するとか言っていたが、あのマニフェストはどうなってしまったのだろうか?
Daiseido
(大聖堂内部のステンドグラス、リオは地震がないので建物は奇抜で高さがある)
▼リオデジャネイロと言って近年有名になった映画は「シティ・オブ・ゴッド」であろう。1960年代から1980年代にかけてのリオデジャネイロ、中でも貧困にあえぐファヴェーラと呼ばれるスラム地域を舞台にした、強盗、麻薬ディーラーなどをして金を稼ぐストリートチルドレンたちの抗争がテーマとなっていた。試写券をフローテスさんにいただいたが行けず、お金を払ってみたがその強烈さは圧倒的である。ガイドさんにお聞きするとリオなどブラジルでは、人の住んでいない住宅を占拠していると、居住権が彼らに発生してしまうという。マイクロバスの窓から覗くとそういう廃墟同然の住宅があちこちに存在する。危険という事なので、そのスラム街にカメラを向ける事も禁止された。もっとも規模が大きいのは11月末に警官隊と衝突した上記ファヴェーラ地区で、普通の人は立ち入る事ができない。映画は続編も作られたが、こちらは大したことはなかった。
Zensai
(レストランの前菜)
▼ブラジルでは人種差別が一切ないとガイドさんが話してくれた。さらにもし黒人を差別すると処罰されるとも…。わたしは南米の移民問題の専門家ではない。詳しくはそれが研究テーマNさんにお聞きになると良いかも知れない。しかしわたしがこの間読んだ何冊かの本を見ると、ブラジルは1900年代に入って国を開発するために、渡航資金を出して移民を受け入れている。その中の一つに日本も入っている。彼らは筆舌に尽くしがたいマラリアや、風土病と闘いながら開墾をして馴染んでいく。それから判断するとブラジルは国を開発するのに、他民族の力を必要としたのではないかと考えられる。だから「人種差別」があったのでは、人々のやる気を無くすと考えたのではないだろうか?
Nikuryouri
(肉料理、客の目の前で切り分ける)
▼わたしはトルコを旅したあたりから国民の顔で国籍が分からないのだ、という事を感じた。ガイドのFさんも日本に初めて来た時、「周りが日本人の顔をした人ばかりで驚いた」と語っていた。島国で「大和民族」などと言って威張っているのは、笑止千万の事なのだ。しかしブラジルに行った日本人たちが、日露戦争で「ロシアを負かせた」事が現地の人たちに畏敬の念を持って迎えられた事は事実であるようだ。
▼さてレストランのドアを少しだけ開けてFガイドさんは一言二言話をすると、オープン5分ほど前だったが果たしてドアは客のための開けられた。この店は肉料理専門店である。まあ、次から次へと串焼きにした肉が次から次へと登場する。アメリカのターキーなどとは比べものにならない美味しさである。とくにベーコン・ウィンナーは美味しかった。前菜は多少遠慮しておいたが、それでも食べきれなかった。最後は調理場に案内され、串をもって調理人さんたちとツーショットを撮った。
Suidokyo
(リオのカリオカ水道橋)
▼帰りはあの有名なカリオカ水道橋や、歌となって有名なイパネマ海岸を通ってホテルに帰着する。ホテルでは事前に24時間スーパーで買って冷やしておいたブラジルワインで乾杯した。以後一晩ごとに参加者が毎日一本ワインを買っては乾杯を続けることになる。部屋のエアコンは激しい騒音を立てるだけで涼しくならない。それどころか洗濯物は2日干しておいてもまったく乾燥しないので、以後着たきり雀となってしまう。そして暑苦しいリオの2夜は騒音とともに更けていくのだった。早朝のコパカバーナの海岸の日の出はもっとも綺麗だとガイドさんは教えてくれた。カメラを持って行こうかなというと、「飛んでもない」何されるか分からないので複数で何も持たずに出掛けなければならない、と念を押される。明日は7時半の出発なので、日の出見物は止めておとなしく眠る事にした。
▼壊れたプリンターを一部壊してゴミに出したが、回収してくれる気配がない。そこで再び引き取って原型が分からないほど細かく破砕した。そして金属とプラスティックを厳密に分類した。分解してみると何故か黒インクが大量に流出して油を混ざって、プリンターの底に溜まっていた。
▼南米に行っている間に録画したビデオは多すぎて手が着けられない。ようやく「ER15」を2本見終わったところだ。先週放映された物の中に、モーガンスタンレー部長が出ていた。彼はコーエン兄弟の「ヒューゴ」や「エアフォースワン」のパイロット役でかなり知られる様になった、ウィリアム・H・メイシーである。さらに年始に放映された「フェノミナン」を見ていたら、「ER15」で病院の受付をしている丸刈りの俳優が出ていた。
▼本日からMINさんの「あたふた南米の旅」の連載が始まりました。

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January 19, 2011

南米世界半周の旅(6)

Southveiu
(山頂から南側を見る)
▼昨日チュニジアの事で問い合わせのメールを頂いた。「某政党」とはあくまでも「某政党」としか書けない。昨日の朝日にチュニジアの戦車の写真が掲載されていた。あれはM60式というアメリカの戦車である。砲塔とサイドのスモーク・ディチャージャーにその特徴がある。あ、後者は敵に発見されたとき煙幕を張って逃げる、煙幕発射装置である。チュニジアに行って砂漠を4駆で走ったとき、現地ドライバーに聞いた話がある。「英語が話せるか?」と聞いたら「少しだけ」というので、「砂漠に点在する歩哨所が多いのは何故か?」と聞いた。するとアルジェリアからのゲリラなどの不法侵入を監視している、という答えだった。もう一つの国境はリビアだからカダフィの睨みは利いているので心配はない訳だ。まさか小麦とオリーブ栽培だけが盛んなチュニジアを侵略しようなどという国はあるまい。だから陸軍の整備にはそれほど力を入れる必要はない。
Miyage
(日本人の経営する土産物店)
▼それにしても大統領が逃亡したチュニジア議会の右往左往ぶりは、カルタゴのハンニバルがイタリアに出兵したときの、決断力を欠いた当時のカルタゴ議会のお粗末な対応ぶりとそっくりである。余談はこれくらいにしよう。帰国してからやらなければならないテーマは山積している。その一つはたまっていたラジオ英会話である。1週間分録音設定して行ったが、ノイズが多くて失敗してしまった。基礎英語は1週間遅れでネットにアップされるので、それを昨晩やっと聞き終えた。海外に出たとき、誰にも頼らず、基本的にトラブルは自力で解決しなければならない。だからそれくらいの英語力は持とうと思う。これが今の所、一日2コマあるので毎日最低でも30分かかる。「週刊金曜日」で本多勝一は連載のエッセイでこの数回英語を批判して、エスペラントだと言っている。ま、それは自由だが、ペンパルならともかく海外においてエスペラント語をしゃべる人を探すのはかなり困難である。
Sentral
(映画「セントラル・ステーション」の舞台となった、リオのセントラル・ステーション
▼コルコバードは眺めが良かった。キリスト像からさらに隣の山に高速エレベーターに乗る。ここは海抜600メートルほどだ。しかしわたしは、一気に高度を上げたのでしばらくの間耳がツーンと鳴っていた。四国の屋島は約300mだから、その倍と考えれば良い。コパカバーナの海岸も見えるが、泳いでいる人は殆どいない。ガイドさんの説明によるとリオは南極に近いので水温が極めて低い。だから海岸で日光浴をするのがその目的になっているとの事だった。ケーブルカーに併設して別の荷物を運ぶかなり高速のケーブルが存在する。よく見ているとそれは燃料の様だった。山頂にはリオの遊覧飛行のヘリポートもあった。つまりこれはヘリの燃料を運ぶ専用のケーブルカーではないかと思った。CSIマイアミでホレーショがブラジルに逃げたマフィアを追ってくる。弟は既にマフィアに殺害されていてその復讐をするのが、このリオという設定になっている。ホレーショの部下のデルコがマフィアとナイフで決闘するのが、このヘリポートだと言う事も分かった。国内外のどこの観光地もそうだが、山の頂上には土産物屋が沢山ある。地上から上に持ち上げているのだから、価格は地上より高く設定してある筈なので、わたしはこういう所では買わない。
Tshatu
(カーニバルショップで売っていたTシャツ)
▼下山する途中でわたしは昨日ご紹介した「蝋石」でできたキリスト像を一個購入した。さらに出発前にガイドさんに途中でCDショップがあったら止めて貰いたいとお願いしておいた。すると麓にある日本人が経営するショップに連れて行ってくれた。昨晩聴いてまだ興奮がさめやらぬ、リオのカーニバルミージックを沢山買い込んだ。帰国して聞いてみるとカネのチンチンチンとかピッピッ、ピーという笛の音色を1時間ずっと聴いているとちょっと落ち着かない。「あのブラジルありますか?」と曲を口ずさむと、「ああ、あれね」とちゃんと出してくれた。中でも「リオのクリスマス」という曲はとても気に入っている。途中映画「セントラル・ステーション」の舞台となったリオのセントラル・ステーションを車内から見る。
▼次はリオのカーニバルの舞台となる会場の近くのミュージアムに立ち寄る。ここではカーニバルのグッズやDVを販売していた。それに3ドル出すとカーニバルで実際使った衣装を着て写真を撮る事もできた。その後、歩いて行けなかった水道橋なども横目に見ていよいよ昼食のレストランに少々早めに到着する。11時25分でまだ店は開いていなかったが、ガイドさんの顔で店を開けさせて中に入った。

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January 18, 2011

南米世界半周の旅(5)

Canival1
(カーニバルショーの一コマ)
▼結局チュニジアのベンアリ大統領はルーマニアのチャウシェスクと同じだったわけです。リオのカーニバルショーが終わってから深夜の町をホテルに向かいます。帰国してからリオでは増水のため被害がでて心配して下さってかたいらっしゃいました。ガイドさんの話では1年前にも市内では2m以上増水して車が水没してしまうような状態だったという事でした。ガイドのFさんは現在62歳で、「自分の時代はなんとか現在の状態が保てるかも知れないが、娘の時代になったらリオは水没してしまうのではないか」と心配していました。この原因も地球温暖化が理由なのかどうか、はっきりしていません。
Tozandensha
(これがアブト式登山電車)
▼ホテルに戻り、飛行機の堅い椅子で2晩過ごした事を忘れ、久しぶりにフラットなベッドの上に横たわり、眠ってしまいました。しかしわたしの泊まった7階の部屋のエアコンらしきモノは激しい音をたてて回転していますが、送風機以上の役割は果たしませんでした。それで少々睡眠不足になります。翌朝は午前8時に迎えにくるというので、6時半に起床してレストランのある1階に降りようとしました。ちなみにフロントは0階と称しています。エレベーターに乗ると壁に水滴が付いています。M氏は「結露ではないか」と推測していました。ところがレストランの階でドアを開けると水浸しで職員の皆さんがモップを持って必死で、朝食どころではなく、「ノー」と言うだけです。わたしたちはさらに0階のフロントに降りるとこちらも水浸しで慌ただしい様子です。しかたなく部屋に戻ってガイドさんに貰った名刺で自宅に電話します。「どうしました?」という事で、わたしの言っている内容があまりにも突飛なのでそれが理解できないようでした。それで折り返すということになりました。
Madohuke
(車窓風景、大きいのは競馬場)
▼しかし朝食はしなければなりませんから、かねて持参の非常食が再び役にたつ事になります。まさに「持って来て良かった」です。ガイドさんからの電話によると4階の客が夜中に帰宅して蛇口を開けたまま眠ってしまって漏水してしまった、という事です。ちなみにこのリオのホテルはシャワーしか付いていませんでした。シャワーだけで果たしてそうなるか分かりません。「出発を1時間遅らせましょうか?」と言うのです。しかしコルコバードの登山電車に余裕を持って乗るには、一刻も早くした方が良いと判断して午前8時とわざわざガイドさんが配慮して下さったのです。わたしたちはもうすぐ食事が終わるから時間通りでお願いしますと返事して準備を完了しました。
Urazo
(後ろから見たキリスト像)
▼それでコルコバードに到着するとすぐに電車に乗ることができました。大体現地の人は時間にルーズらしいのです。しかし日本人の血を引くガイドさんは、いつも待ち合わせの時間の前に来ていました。最初に乗る電車は大昔信越線の碓井峠で使われていたのと同じはアブト式です。終点に行くと頂上までエレベーターで行く方法と、約200段歩く方法があります。M氏と筆者は共に歩いて頂上を目指しました。すると目の前にあの巨大なコルコバードのキリスト像が姿を現しました。この像は映画「黒いオルフェ」にも出ていました。この像は1931年にブラジル独立100周年を記念して建てられたもので、高さは30メートル、左右がは28メートルあります。わたしは現地の土産物店でこの像の小型で13cmほどのモノを買って来ました。しかし帰国途中頭の部分と左手が折れてしまいました。日本のようなエアパッキングがないので仕方ありません。新品の大きなカバンすら乱雑な扱いで傷だらけになっています。夕べようやく瞬間接着剤を買って来て、どうやら元通りになりました。

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January 17, 2011

南米世界半周の旅(4)

Chunisia
(町のあちこちに大統領の写真が貼られていた4年前のチュニス)
▼チュニジアの政変に前原外相が「驚いた」と発言している。彼は12月に行っているのだからそうなのだろう。しかしわたしが驚いたのは、チュニジアをずっと一貫して持ち上げてきた某政党の事だ。「現代のチュニジアにも、新しい条件のもとで、その重要性は引き継がれている。」と某幹部は連載の最後で語っていた。わたしがチュニジアを訪れたのは4年前の事だ。わたしは町の様子やとくに、軍隊の装備とか訓練、配置状況でその国を別の面から判断する。例えば海に面した丘の上にある大統領公邸の周りには、双眼鏡を持った兵士が散在知る歩哨所に配置されており、カメラを向けてはならないとガイドから言われた。また内務省の周りにはこれまた完全武装の兵士が、オーストリアのAUGライフルを水平に構えて、すぐに撃てる体制で警備していた。一度書いたが「写真を一枚撮らせて」と言ったら、もの凄い勢いで怒られた。しかも途中で見た陸軍の施設はかなり貧弱で、大統領は自分の身辺を守るのに秘密警察の力を注いでいる様に感じた。さらに北部のチェニスには路面電車が走っているにも関わらず、南部では洞穴で生活している人がいるなど、その格差も目立った。果たしてこれが「北アフリカの星」と言える国なのか大いに疑問を持っていた。
Samba2
▼ブラジルは合計3日間だけ滞在したのだが、入国の事前手続きはかなり面倒だった。ビザを貰うには本人名義の預金残高が25万円以上がある銀行の証明書(コピーではない、約1000円もする銀行の証明だ)、住民票、本人自筆のブラジルからまっすぐ外国に出国するという誓約書、それに普通とは違う規定の顔写真。おそらく日本に出稼ぎに来ているブラジルの人々にも日本政府は同様の事を求めているのだろう。
▼サンバショーはブラジルにいた先住民の歴史から始まる。各国の先住民の事はわたしが2009年10月2号のメルマガで一度ご紹介した「銃・病原菌・鉄/―1万3000年にわたる人類史の謎 」上下巻ジャレド ダイアモンド (著)に詳しい。ブラジルの先住民はポルトガル人が持ちこんだ病原菌によって絶滅に近く減少して、現在は人口の1%でしかない。そして鉱山採掘や農作業で多くの奴隷を必要としたポルトガル人はアフリカから原住民である黒人を連れて来て酷使する。黒人たちは抵抗する手段を持たなかったため、「カポエイラ、カポエィラ (capoeira)」という舞踊の様な武術を編み出す。殆ど素手で足を使った回し蹴りが中心となって相手を一瞬のうちに倒す。また家畜をコントロールする笞の先に木製のボールをつけた武器を目にも止まらぬ早業でグルグルと回す。言ってみれば中国武道のヌンチャクを長くした様な武器である。さらに贅肉がまったくない男性たちによる組み体操のような舞踊もある。町で見かけるブラジル人は一般的にかなり肥満型の体型が多い。しかしこの体操に出演する人たちの身のこなしは素晴らしい。これらを見ているだけでお茶漬け日本は、肉を食べているブラジルにサッカーではとうてい勝てそうにないと思えてくる。
Samba3
▼ショーは一旦中断し会話が巧な司会者と観客との交流が始まる。会場には3ざっと見たところ30ヶ国以上の人々が来ていた。わたしの席の前にはドミニカの男女ペアが座っていた。一番多かったのはロシアのように思えた。最初に司会者は「ハポン」呼びかけ客を舞台に呼び上げる。わたしたちとは別の日本人グループが5人ほどいて、舞台に登って「テンプラ」ソング、「上を向いて歩こう」の合唱になる。ベトナムに行った時もそうだった。各国の客が呼び上げられるたびのその国のもっとも知られている歌の大合唱となる。
▼さてサンバである。サンバとは現在のサルバドールで発祥したと言われている。当時この地はバイーアと呼ばれ、奴隷貿易でアフリカから連れて来られた黒人が上陸した。その後リオに、バイーアから移住したアフリカ系黒人の奴隷労働者たちが持ち込んだ、バトゥカーダ(打楽器のみの構成によるサンバで日本のチンドン屋さんの音を激しくしたものと考えれば良い)などの音楽をもとに、ショーロやルンドゥーなどの要素がとりこまれ、ブラジルを代表する音楽ジャンルとなった。
Samba4
▼舞台上には宝塚の様なド派手な羽根をつけた女性が乱舞して踊りまくる。そして時折生命力に溢れたシーン(直接的な表現をすればエロチックな)が出てくる。帰り道のガイドさんの説明によれば、あの粘っこい独特の腰の動きは白人と黒人のハーフにしかできない表現方法だということだった。そんな素晴らしい踊りが舞台狭しと3時間ほど繰り広げられた。同行のお二人は長旅の疲れから、時々うとうととされていてた。そして最後はあの名曲「ブラジル」である。速報では書けなかったが、テリー・ギリアムの名作「未来世紀ブラジル」の挿入曲としてこれは世界に知られるようになったと思う。

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January 16, 2011

南米世界半周の旅(3)

Csimiami
(リオ行きの機内で放映されていたCSIマイアミ)
▼寒いのである。何せ海水浴で正月を楽しんでいるリオは30度以上あって、わたしは短パンTシャツで歩いていた。だからこの急激な寒さはかなりこたえる。今回の時差ぼけによる体調不良はすくなくて済んでいる。おそらく現地でも泳いでいたこと等が影響していると思われる。帰国してから例え眠くても昼間は我慢して、昨日は10kmは歩くようにした。極めつけはゲバラが好んで飲んでいたマテ茶と、それを飲む道具一式を買って来た。それを続けているので1kg増えた体重も元に戻った。
▼昨日はプリンターが壊れてしまった。年賀状を印刷していて、普通のA4の印刷に戻すと黒インクが出なかった。ヘッドのクリーニングを何度も繰り返しているとたちまちインクがなくなってしまった。暮れにインクを買ったが、13日に帰国してカートリッジに取り付けようとすると規格が違っていて入らない。それで15日夕方となり駅のYカメラに行って再び正式な製品を買いに行く。取り付けようとすると本体のピンが折れてしまった。さっそく御徒町のC社のサービスセンターに電話する。今は一体型になっているので部品だけ販売することはしない。しかもわたしの持っている機種は生産中止になっている。同等品の在庫を探したが、取り寄せるのに数日かかる。さらにその料金は6千円強であるという。しかも今のインクは使えない。
Samba13
(サンバショーその1)
▼ここでわたしは決断を迫られた。印刷待ちになっている請求書は日曜日には発送したい。今のインクカートリッジが使えないなら買い替えよう。調べて見ると今のプリンターは丁度3年前に買い替えている。再びYカメラに行く。間違って買ったものと、1時間前に買い替えた黒インクは現金を返してくれた。今はインクさえ一体型になって個別のカートリッジを買えない仕組みになっている。買ったのは唯一個別のタンク方式になっていたip4830で1万5千円ほどした。
▼成田で出国の怒りを送って下さった方がいる。実は帰国するときわたしはヒューストンでもっと嫌な思いをした。具体的にはあと1週間後くらいに書くが、わたしだけあの最新全身スキャナーにかけられたことだ。
Samba12
(サンバショーその2)
▼リオでの初日夜は日本から持参した食料を食べた。実は出発前に参加者全員に非常食を4個持参するようにお願いした。Hさんなどはこれを「サバイバルツアー」と称していた。しかし実際に何があるかわからないからだ。Mさんは指定の有楽町交通会館の海外旅行専門店で買って来た。わたしは海外でどうしても鯛焼きのようは餡子のモノを食べたかった。しかし飛行機と温度変化に耐えられそうにない。考えた挙げ句、表参道の新潟県アンテナショップで日本酒を使って長持ちさせる饅頭を発見した。それを道中数回にわたり三分割してみんなで食べた。
▼夜のブラジルサンバショーは日本で申しこんだ時2万1千円もして、かなり「高い」と感じた。しかも食事もドリンクも一切ついていないのに、である。それで今まで航空食に飽きたので、持参したインスタント食品を食べて腹ごしらえをした。Mさんにはあらかじめ4月末に海外で使う電気湯沸かし器を買ってもらった。各人には保温マグを持参するようにお願いしてある。これらの事は昨年のポルトガル旅行の時、同じグループの他の旅行者がやっていたのでメモして今年に反映させた。
Guebara
(ゲバラグッズの数々、左端のベレーはNさんからいただいたキューバ土産、Tシャツはアルゼンチンで、マテ茶とそのグッズはブエノスアイレスで購入した。)
▼やはり日本食は胃に優しい。わたしは山葵茶漬けを食した。他の人は何を召し上がったのかはっきり覚えていない。空港の出迎えに来たマイクロバスで「ショー」に行く。建物は最大800名は入る会場である。出発前にガイドさんから注意があって、会場の入り口や会場内を練り歩く3人のグループは観客と一緒に写真を撮って稼ぐ人なので、カメラを向けてはならないということだった。たしかその人たちは身体は1m80以上あってヒールを履いて2mもあるように感じる。グラマラスな肢体をさらして練り歩き、「ご一緒に一枚どうお?」てな工合で話しかける。わたしは身長1m70だが、彼女たちと一緒に立って撮って貰うとこちらが貧弱に見えるので止めた。ショーが始まる前の時間つぶしに高校生くらいの女子生徒が出てきてサッカーボールを蹴ったり独演会をして見せた。これはリオでは何事も時間通りに始まらないので、客を退屈させないための演出であるという。ショーは午後9時過ぎからはじまった。ガイドさんが車の中で、ショーのストーリーをあらかじめ話してくれたから理解するのに大いに役立った。
▼わたしは現地速報用ブログの写真は携帯で撮り、帰国してからのこれはLUMIXのLX3の2本建てで撮っている。今までカメラは3種類使ったが、海外旅行はこのLX3に勝るものはないと思って、昨年もう1台買って故障した時に備えて2台持参することにしている。いよいよショーが始まってわたしたちの眼はそれにくぎ付けなる。LX3は激しい動きは止めることができないが、色は綺麗で持ち運びに便利である。

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January 15, 2011

南米世界半周の旅(2)

Hustonk
(ヒューストン空港待合室)
▼話は前後するが成田で出国するとき、わたしは練り歯磨きを捨てさせられた。というのは前日近くのスーパーで小型の歯磨きが88円という安価で売っていたので買って手荷物に入れた。それはトランジットのときに、空港で歯を磨けると思ったからだ。ところが50gの歯磨きはダメだという。ならば量を絞り出して少なくすれば良いか、と聞いたらそれでもダメだという。つまりホテルなどに泊まったときに、歯ブラシに付いて来るごく少量でないとダメなのだという。
▼ヒューストンで待ち時間は8時間近くもあった。なすこともなく椅子に座って時間を待つ。通過だから空港の外に出ることもできない。見ていると空港の中にはサムソンのマークが付いた充電所が二ヶ所もあってパソコンや携帯を自由に充電できる無料サービスをやっていた。利用者はipadやキンドル、それに見た事もない薄型のノートパソコン、子ども達はゲーム器を充電していた。
▼帰国してドコモに電話して何故わたしの携帯がアメリカとアルゼンチンで使えないのか聞いてみた。今までチュニジア、トルコ、ポルトガルでは問題なく使えていた。しかしトルコに同行した人は契約しているのに使えないと愚痴っていた。昨年末インドに行った人も使えないとこぼしていた。聞いてその原因が分かったつまり「GMS」という一番新しい国際規格になっていないと、今回わたしの立ち寄った国では使えないのだった。昨年の2月に替えたのにこういう事だ。オートバイで世界を二周した浦野さんがなぜ携帯を2台持ち歩いているのか分かった。簡単に言えば国内連絡と海外に行った時の連絡用なのだ。日本のおサイフ携帯、音楽を聴けるとか新しい技術の様な事を言っているが、実は日本国内でしか通じない技術だ。一歩日本を出たらまさにガラパゴス状態なのだ。わたしは次の旅行まで1年あるので海外携帯を別に一台もつかどうか考慮中である。一番安いネットで販売している6千円前後の海外携帯は通話はできるが、メールなどは一切できないからブログの更新はできない。
▼さて8時間待つと言っても昔に比べると格段の進歩なのだ。わたしの友人は20年前にアルゼンチンに行ったとき5回乗り換えたと言っていた。さらに石川達三を有名にした「蒼茫」という昭和28年の小説がある。それによれば1930年に神戸から船便でリオデジャネイロまで45日かかっている。船は香港、マニラ、サイゴン、デリーからケープタウンを経由して、リオで一部の人を下船させ、さらにサンパウロまで行くのである。「神戸港は雨である。細々とけぶる雨である。海は灰色に霞み、街も夕暮れどきのように暗い」という書き出しで船旅に先立ち、このように移民たちの不安な気持ちを書き表す。
Kinaishoku2
(南米方面の機内食)
▼ヒューストンから先は同じコンチネンタルだが、機内食は期待できそうにないらしい。とにかく片道丸2日はやることがないので出てきた食事は全部カメラに収めた。13時間ほどたつと飛行機は機首を下げ始める。とにかくヒューストンまでは機内案内も日本語も出てくる。しかしこちらに乗り換えるとポルトガル語が主で、英語がサブ音声になる。周りに日本語をしゃべる人はいなくなる。右側座席が眺めが良さそうなのでCA(キャビン・アテンダー)さんを見ると座席を移動しても良いと合図してくれた。旅行案内書でしか見た事のない景色が眼下に広がって来た。
▼通関手続きは簡単だったが、バゲッジを回転させるマシンが故障してしまい、手作業で荷物を出すのでかなり待たされる。出口に行くとわたしを先頭に3人の名前を漢字で書いた紙を持った女性が待っていてくれた。Fさんという女性で、リオで手広く不動産業を手が手がけているという日系3世と自己紹介をしてくれた。マイクロバスで市内のホテルまで移動する。そのとき日本にいたときの疑問を投げかけてみる。まずスラム街で警官隊と衝突して50人死亡したという事件だ。すると彼女は「あれは全くのウソ。一人も死んでいません。とにかく目立ちたがりたくで大げさにリオの事を書くジャーナリストがいて困っている。全くのデタラメで、「地球の歩き方」でも旅行者がしっかりと確かめないで書いたり投稿している人が多くて迷惑している。同行のHさんは混乱に巻き込まれて死ぬかもしれないので、遺書を書いて旅行に参加しようかと思案されていたほどだ。
Riokuusatu
(リオ空港上空で着陸態勢機内から)
▼次は水道橋の上を走る木製の130年前の路面電車に乗ってみたいという。あそこは危険な地域に近く、かなり危険な地域である。頼むから(と両手を合わせ)行かないくれと懇願される。そして危険なのはリオだけではなく、南米全てが危険地域であると認識してもらいたいと念をおされる。ホテルに案内され、すぐ近くにあるレストランの使い方を教わる。出歩く時、ウェスト・ポーチは狙われるので持って歩かない。パスポートは金庫に入れ、ポケットには少額現金とカードだけにして、道を歩くときも浮浪者がたむろする側は避けて歩く様に指示される。そしてレストランは量り売りである。入り口で細長い緑色の紙を貰う。食べる物を選んで皿に載せる。それから計量皿のある場所に行って数字を書き入れて貰う。出るときはその数字に料金を掛けて値段が出る。そこでは現金でなくカードで払うようになっていた。他の二人はカードを持ってはいるが暗証番号が設定していないまま持ち出したので、認証に手間取る。昼食にはFさんの奢りでビールがワンドリンク付いていた。

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January 14, 2011

南米世界半周の旅(1)

Kinaishoku1
(コンチネンタル航空最初の機内食)
▼昨日午後3時40分頃無事に成田空港に到着しました。ブログをお読み下さったみなさんありがとうございました。わたしは今回の旅行で1000枚近い写真を撮影しました。旅の連載は本日から14回くらいで掲載するつもりです。この間に選りすぐりの50枚程度はご紹介することができると思います。またお土産は何もありませんので、期待しないで下さい。
▼今回何故南米なのか少しお話しします。本当はボリビアのウユニ塩湖とゲバラ終焉の地を旅したかったのですが、行くための適当な手段がなかったのです。それでせめてゲバラの生誕の地であるアルゼンチンを最終目標にしました。しかし生誕の地もネットで調べると、拳銃強盗にあったという書き込みがあったので、今回行くのは止めました。今回同行して下さったHさんは皆さんご存知ない方です。彼女は7年ほど前からわたしのメルマガとブログを読んでくださっている方です。昨年ポルトガルの手記をご覧になって「次回行くときは誘ってください」と言われていましたので、夏にご連絡しました。そしてご家族とご相談の上「またとない機会だから冥土の土産に行ってきたら」と言われて参加してくださいました。足に不安があたので登山用の杖をご持参になりましたが、それらを一切使わずに全行程を元気に歩きました。
▼今回単に顔見知りというだけで「一緒に行きたい」と言われても困りますので、計画はかなり秘密にして準備して来ました。今後3、4年先まで、皆さんがあまり行かない場所へ旅行する大まかな計画はできています。少人数の最大5名以内で気心の知れている方以外はお誘いするつもりはありません。英語は単語を知っていれば良いのですが、相手が何を喋っているか理解できない方は残念ながら、事前審査でノーです。あとパックツアーではありませんので、自分の危機管理は自分でできる方です。わたしは単なる同行者ですので、事故が起きても何をして差し上げることもできません。
Sandwitch
(ヒューストン空港のターキーサンドは6.77ドル)
▼今回遠距離で地球半周の旅ですから添乗員付きの完全パックツアアーですと50万円は越します。そこで旅行社の選定から、トランジットまで全部自分でやって現地まで辿り着かなければなりません。そこが一番心配でした。今回は珍しく夕方の出発だったので、成田空港に集合した面々は最後の昼食をそれぞれ気に入ってモノを食べました。わたしはカツライスにしました。後はテキサス州ヒューストン到着までどうやって時間を潰すかです。わたしは皆さんに文庫本を各4冊持参するようにお話しましたが、薄暗い機内で本を読む気持ちになりませんでした。幸い最後部の座席に3人並びで確保できたので、トイレなど自由に出入りできたので気分的にかなり楽でした。ヒューストンに着いて例の指紋認証があります。まず右の人差し指から小指までの4本をスキャンされ次に親指、次は左手になります。最後は顔写真を撮られます。しかしそのスキャンの方法はかなりズサンで、本当にこれで役に立つのかと思うほどです。税関の職員はグロック拳銃を持っていましたが、隣のブースの職員と無駄話をして真剣にやっている様子が見られません。入国審査はかなり長い列があったり、時間がないので割り込みをさせてくれとか。アメリカ人でバゲッジを持っていないから割り込みをする連中が後を絶ちません。
▼昼食は売店でサンドイッチを買いましたが、写真のように分厚くてまずい肉が沢山入っているので、肉はゴミ箱に捨てて食べました。アメリカ入国にはESTAと呼ばれる認証を事前にネットで済ませ、許可番号を持って行かないとトランジット通過もできません。わたしもめでたくアメリカ政府によってテロリストではないと認定されましたので、4000円ほど支払って許可証を手にしました。さらにバッグの鍵もアメリカの税関職員がESTA仕様の解錠する仕様でなければなりません。

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January 13, 2011

悪魔の喉笛を真上から見る。

悪魔の喉笛を真上から見る。
イグアスは世界遺産になっている。公園が朝8時に開くのを待ってトロッコ列車に乗ってイグアスの滝を上から見た様子です。昨日より圧倒的な吸い込まれるような迫力でした。猛暑なので水をが欲しくなる。750ml3ドルもした。夕べの食事はビュッフェ方式でビール小瓶をたのんで25ドルだった。南米では日本の携帯は圏外が多く、文章を作って送信まで、時間がかかります。これはアルゼンチンで作った文章です。携帯が通じなくて成田でおくります。無事成田に到着しました。みなさんありがとう。
Duke(Argentine)

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January 10, 2011

いま三国国境です。。

いま三国国境です。。
日本は今日は成人の日とか。わたしはブラジルを出国してアルゼンチンの国境の町プエルトリパスに来ました。港の川と言う意味です。これから、アルゼンチン側のイグアスを見ます。写真はモニュメント。
Duke(iguassu)

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これがイグアスの滝です。。

これがイグアスの滝です。。
ブラジルとアルゼンチンの国境にあります。デニーロがでた1980年代の映画ミッションやインディジョーンズ最後の聖戦で、飛行機が墜落するシーンにも出てきます。イとは水、グアスは大きなと言う意味です。高さはそれほどでもありませんが、水量には圧倒されます。ホテルは山の中で外出できません。蒸し暑さはものすごいので、プールでひとおよぎして来たところ。
Duke(iguassu)

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January 09, 2011

リオデジャネイロを出て南米大陸

リオデジャネイロを出て南米大陸
沿いに南下中。今はクリチバで乗り継ぎ客を下ろしています。写真は飛行機の窓からみた大西洋。
Duke(riodejaneiro)

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ホテルが水びたしで、朝食は食べられず。

ホテルが水びたしで、朝食は食べられず。
今は日曜日の朝空港に向かっている。xリオデジャネイロより更に南を目指している。昨日朝食を食べようとレストランに行くと漏水で水びたしだった。四階の客がシャワーを出したまま寝てしまった為だと説明があった。それで急遽日本から持参した、インスタント食品を食べた。今朝はホテルの朝食を食べる事ができた。写真は、今朝の朝市。
Duke(riodejaneiro)

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昼御飯の一部です。

昼御飯の一部です。
いま現地時間は夜の9時半です。リオデジャネイロの昼間の気温は32度から35度です。私は日本から持参した短パンとティーシャツで1日を過ごしました。クリスマスが終わった後はコパカカーナの海岸は海水浴客で大にぎわいです。ビーチに日本の生活協同組合のような旗があちこちに立っています。それはなんと男性同性愛者の集まりなのだそうです。ティーバックの水着姿の女性闊歩しているので目のやり場に困る程です。しかし日本相撲の回し姿は、現地の人達には、同性愛を連想させて笑いの対象となっていると言う事でした。写真は昼御飯のメニューの一つです。Duke(riodejaneiro)

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January 08, 2011

コルコバードのキリスト

コルコバードのキリスト
これを見たかった。リオデジャネイロ最大の名所です。
Duke(riodejaneiro)

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「未来世紀ブラジル」

「未来世紀ブラジル」
と言う20年ほど前の映画がある。監督はデリーなんだっかちと思い出せない。今は潰れてしまったが、渋谷西武デパートの近くにあった小さな映画館で、昔見た。夕べのカーニバルショーの最後は、正にこのラララララ、ラーだった。最初の出し物はブラジルの歴史から始まる。ポルトガルによって発見されたこの国は、先進国が持ち込んだ病原菌と、殺戮によってほとんど絶滅してしまう。その後アフリカの原住民を奴隷として連れて来て酷使する。寸鉄の武器を持たない彼等が、舞踊に似た抵抗武術を始める。それが均整の取れた贅肉が一つもない男性達によって披露された。女性達の踊りは宝塚や常磐ハワイアンショーも子どもか幼稚園の遊戯に見えて来る迫力だった。
Duke(riodejaneiro)

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真夏のコパカバーナ海岸です。

真夏のコパカバーナ海岸です。
なぜリオデジャネイロに来たかは、追々お話します。私は名所旧跡には余り興味はありません。従って誰もが行くと言うマチピチュや、ナスカの遺跡はどうでもよいのです。先にリオデジャネイロの事をブログに書いたのは、なぜ巨大なスラムがあるのかに目が行きます。リオデジャネイロは日本の真裏に位置し、ブログを読んでいる皆さんとは、足の裏を合わせている事になります。今は真夏で、目の前にあるコパカバーナ海岸は海水浴客で、ごった返しています。そこは、極めて危険でもあります。そこで長旅の疲れと時差ぼけを治すため、ホテルの屋上のプールでひとおよぎしてきました。今回同行者は二人でツアーではありません。私より英語の得意なHさんと何時ものMさんです。私も一年間NHKの基礎英語を毎日一時間勉強してきました。しかし現地ブラジルでは、ポルトガル語以外通じません。三日後に行く予定のアルゼンチンはスペイン語だけです。トラブルが起きると解らない言葉を早口でまくし立てる穴埋めに悩まされながら、どうにかブラジルにたどり着きました。乗り換えのアメリカヒューストンでは携帯がまったく使えず参りました。これで今後はパックツアーに頼らず世界を回る自信もついて来ました。日本との時差は昨年のポルトガルとは逆に12時間遅れです。
Duke(riodejaneiro)

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January 07, 2011

いまブラジルのリオデジャネイロです。

日本から飛行機を乗り継ぎ30時間で地球の裏側に着きました。
Duke(rio)

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January 06, 2011

メルマガは17年、400号を迎えました。

▼昨晩メルマガを送信して、お一人から400号達成記念と年賀メールを頂いた。長いようでもあり、毎月締めきりの二週間目は待ったなしでやってくる。かつて作家の松本清張が「どうしてあのように沢山の作品を書けるのですか?」と聞いた人がいて、作家は「君それは〆切りがあるからだよ」とこともなげに答えたという。MINさんも同様な事をおっしゃっていたが、わたしもまた二週間ごとの締めきりがなければ、それほど必死になって読まなかっただろう。それに読書というのは一冊読むと、次々芋づる式に面白い本が発見できる。昨晩書いた今柊二著の「定食と文学」も同様である。とくに最後の方に行くと、ブラジル移民とその食事に関する本が、5冊も出てきたのには、何と言う偶然だろうと驚いてしまった。さっそくまだ休館中だった図書館にリクエストを出し、昨日夕方受け取ったので5冊をバッグに詰め込んだ。
▼かと思うと昨年暮れに久しぶりにお会いした某氏は、「すっかり視力が弱ってしまって、読書をとるかPCをとるか選択しなければならない状況に追い込まれている」、とおっしゃっていた。かく言うわたしも夕方になると眼が痛くなる。少しでも長い間、読書ができるようTVを見る時間を少なくするなどインターバルを十分にとって養生している。
▼昨晩はさらに「校正」の日で午後11時過ぎにいつもの校正がネットファクスで送られてきた。ざっと眼を通したが、寝る直前に仕事に集中することは、身体に悪いので打ち切って、このブログを書き終わってからやることにしている。
▼次回から1週間ほど、諸般の事情により、このブログの更新時間は不定期になります。ご了承下さい。

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January 05, 2011

再びNHKBSで「大陽に灼かれて」を見る。

▼昨日は最終的に再び1万5千歩まで行った。集団で歩くときは周りと歩調を合わせなければならない。一人のとき歩調や速度は緩急自在に調整でき、休むこともできるのでそれほど疲れない。
◇「大陽に灼かれて」1994年に日比谷シャンテで公開されたときに感想は書いた。ところがNHKで昨年11月と12月に同じものが放映されたので、録画して再度チェックして見ると公開当時とは違った感じを受けたので再度ご紹介する。
▼スターリン統治下のソ連のある夏、旧貴族階級の青年ディミトリが住むモスクワでも粛清の嵐が吹き荒れていた。彼は今や秘密警察に勤務している。一方革命の英雄コトフ大佐(監督兼主演のニキータ・ミハルコフ)は田園地帯の避暑地で若い妻マルーシャとその親戚一同と避暑をしている。その中には目の中に入れても痛くない程可愛い一人娘のナージャとともいる。冒頭農民たちが大佐に直訴して今にも戦車が麦が実った畑で砲撃演習をしよとしているので何とかして欲しいと訴えてくる。「せっかくの休みなのに」とぼやきながら戦車は穂が実った麦畑に砲弾を今にも発射しようとしている。大佐は自分の権限で司令部に電話して中止させる。
▼戦車を帰らせて別荘に戻ると奇妙なサングラスの髭面の老人が彼らの家を訪問してくる。何とそれはかつて家族同然のつき合いがあったディミトリが変装して姿だった。みんな彼との再会を喜び、娘のナージャもすぐになつく。しかし大佐は彼が妻の昔の恋人の間柄にあることを知っていた。大佐はマルーシャ今の妻にすべく計略を図り、ディミトリを海外に赴任させ、その間に妻と結婚してしまう。ディミトリはそのことを恨んでおり、妻はそのことを初めて知り大きなショックを受ける。一家は川遊びにいき、大佐は娘と二人で筏に乗って遊んでいる。木陰で二人きりになったマルーシャとディミトリのあいだには、急激に昔の想いがよみがえる。
▼民警による抜き打ちの毒ガス避難訓練が行われ、川遊びどころではなくなってしまう。午睡のあと、ディミトリは別荘の裏の森でボール遊びをする。大佐はそこでディミトリを呼び、彼が別荘を訪ねて来た本当の目的を問う。ディミトリは大佐に「ドイツのスパイ、日本のスパイ、スターリン暗殺のメンバー」だと罵倒しまもなく逮捕すべく、部下が車でやってくるから準備をせよと命じる。大佐も彼が秘密警察のメンバーである事はすでに感づいていた。ディミトリは大佐を連行する黒い車の二人の男たちを連れて戻ってくる。大佐は家族や娘が心配しないように「仕事でモスクワに行く」と一同に告げ、軍服姿正装しで車に乗る。しかし車に乗ると「武器は持っているか?」と聞かれ常に携帯しているリボルバーを取り上げ、大佐に暴行を加える。映画を見たときは長い話だと思っていた。しかし実際には1日か2日の話だった。そして何度か「海に沈む、偽りの大陽」という詩が出てくる。つまり偽りの大陽とはスターリンの事ではなかったか。そして大佐を逮捕してモスクワに戻ったディミトリにも未来は何もなかった。
▼わたしの2回目に見た感想ではこの映画は政治劇ではなく、自分の愛する女を奪った大佐への復讐劇だったという事だった。
▼本日はメルマガの締め切り日です。お忘れなく。

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January 04, 2011

日野七福神巡りで3時間歩く。

▼昨日の日野七福神は3時間歩きっぱなしだった。わたしの持参した歩数計は壊れてしまったが、他の方の歩数計は軽く1万5千歩を突破していた。日野七福神巡りは、京王百草園駅近くの真照寺の恵比寿天から始まった。本当は全部歩くと良いのだが、それだと夜になって疲れて歓談する時間もなくなるので、電車も利用し午後1時半には終点の高幡不動尊に到着した。しかしお参りをしようとすると長蛇の列でかなり待たなければならない。疲れ切っているのに更に立って待つので辛いので、寺の外から手を合わせて終了し、飲み会に入る。今年の主宰者星林さんが1年前から準備して下さっていたので、酒も肴も美味だった。3時間ほど美味しく頂くと、「こんなに楽しい集まりは年に2回くらい開こうよ」という話になった。
▼星林さんは昨年末にラオスを旅した。途中飛行機の中で携帯のSDカードに入れた小説を読んでいたという。たしか飛行機の中は携帯のスイッチを切らなければならないはずだ、と話す。すると「飛び立つ瞬間に電話として使わなければよいのでは?」とおっしゃる。そんな筈はなく、「乗ったら電源を切れ」というアナウンスをしている。しかし飛行中も注意されずに、異常事態にならなかったというのは何故だろう。もしかして飛行機器に影響は与えないのかと思った。だとすると「禁止」している理由は何なのだろうか。
▼ガボンに行っている人の話を聞いた。コートジボアールでは大統領選で内乱があり20~30人亡くなったという。ガボンに滞在している日本人たちもJICA主導で連絡網を使って避難訓練をしたが、本気でやっていない。フランスなどは外人部隊を待機させているが、緊急事態になったとき自分たちはどうなるのか不安でたまらないと言っていた。
▼仕事始めはお得意様の挨拶回りで始まる。4日の午前中になるべく沢山の訪問を終える。後は明日の午前中になる。というのは、そちらは5日が仕事始めだからだ。昨年は1日早く行ったら会社は閉まっていた。仕方なくご持参した挨拶の品は近くの郵便局から郵送するという間抜けな事になってしまった。今日午前中だけで1万1千歩歩いた。

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January 03, 2011

WOWOWで「アバター」を見る。

Ihatiryuu
(伊八の彫った龍、3年前に取材)
▼昨晩11時頃NHKを見ていたら、「波の伊八」を訪問していた。わたしは3年前に取材で訪れた。一度ご紹介したことがあるかもしれないが、わたしの撮影した画像をご覧頂きたい。本日はこれから『鍵盤乱麻』読者と共に恒例の七福神巡りである。今年は日野七福神とかなり遠い場所なので、手短に書いて出掛ける。昨日は表参道に親戚一同が集まった。どこを歩いても「振る舞い酒」のサービスが目立った。わたしは昼間や2日連続しては飲まないので、残部お断りして通り過ぎた。
▼元旦に1年前にかなり人気だった「アバター」が放映されたので録画して見た。「アバター」とは今は「コンピューターネットワーク上の仮想的な空間において、自分の分身として表示されるキャラクター」として理解されているが、元もとヒンズー教の用語で「(この世に現れた神の)化身、権化という意味である。ストーリーは多くの方がご存知だと思うので省略する。監督のジェームズ・キャメロンは「ターミネーター」で一躍その名を知られる様になった。次は「エイリアン2」である。この「アバター」も「エイリアン2」とかなり似通っている。あれは月に出来た植民地での話で、そこに海兵隊が乗り込む。この映画もそこまでは同様である。ターミネーターと言えばシガニー・ウィバーの活躍であるが、このアバターでは科学者になっている。「2」はエイリアンに敗退して地球に撤退する。しかしそこに出てくるパワースーツや航空機は「2」の発展系である。
▼侵略者であるアメリカ人が肯定されるのは「ニューワールド」でも同じだが、アバターはベトナム戦争で負けた原因が分析されているように見える。アバターたちが崇める巨大な樹木の下に貴重な鉱物資源が眠っているとされる。侵略する軍隊と企業は一体となって権益確保のために、大量破壊兵器を使ってアバターを根こそぎやっつけようとする。しかし侵略の尖兵となった男ジェイクがアバターの娘と心を交わしていくうちに、侵略は間違った行為ではないかと考えるようになる。ジェイクがかつての戦争で下半身が動かなくて車椅子で移動しているという設定も中々考えている。そしてこの作戦に成功すれば、下半身の足を提供すると上司から言われている。しかし侵略を是としない科学者の他同調者3人によってアバターは力を得て反撃するという設定だ。
▼キャメロンは何を言いたかったのか?アメリカが主導した多くの侵略戦争が正義とはかけ離れた行為だったという事を言いたかったのではないだろうか。以下時間があったら夜に加筆するかも知れない。

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January 02, 2011

介護ロボットは本当に必要なのか?

Tamonjit
(多門寺の近くから見てスカイツリー)
▼昨日午後4時になって向島七福神を歩こうと思った。鐘淵まで電車で行って約1時間半で全コースを歩き自宅まで戻って来た。歩数は5789歩だった。夕暮れ時だったので少々迷った場面もあったがほぼ目標を達成できた。これは3日の日野七福神巡りの準備運動でもある。わたしはあと4年ほどかかってどうしてもやり遂げたいことがあるので、現在の健康状態を維持しなければならない。
▼箱根駅伝が始まった。友人に熱心なファンがいる。ランナーと一緒に伴走するならばともかく、コタツにあたって応援しているだけで健康になる筈はない。TBSラジオで「森本毅郎スタンバイ」という番組がある。彼は競馬の猛烈なファンで、朝6時半のオープニングから「スポーツ」と称して有名なレースのゴールの瞬間を放送していた。わたしは「競馬はギャンブルであって、スポーツは乗馬であるはずだ、と担当者に何度もメールを送った。だが一向改善される気配がないので、この番組を聴かなくなってしまった。
▼昨日の新聞に元職場の上司が83歳で亡くなったという訃報が出ていた。この人も酒が好きで晩酌をやめられなかった。しかも夏場は自分で作った砂糖たっぷりのアイスコーヒーを飲むのを楽しみにしていた。1年ほど前から風の噂で痴呆状態が進んでいて施設に入っているという話を聞いた事がある。年賀状で同じ83歳の人が車椅子で奥さんの世話になっているという書いてあった。彼もかなり太って酒好きで脊椎管狭窄だった。もう一人わたしより7歳くらい若い男性は年末にアキレス腱を切ったとあった。彼も体重がかなり増えていた。最後に年賀状の女性はわたしより3歳くらい若いひとだが、昨年血管が詰まって手術をしたとあった。彼女は美食家である。年賀状の顔写真には血管障害を煩った疲れが見える。
▼運動とは定期的に身体を動かすことで、スポーツ観戦ではない。上記のような病気を避けるためにどうかお気をつけ頂きたい。今年は他人の健康状態に意見をいうのは止めた。どうなろうとご本人の気構え一つで、結果は本人とその家族が責任を負うだけの話だ。
Yumemakura
(プリントアウトして今晩枕の下に入れて下さい。きっと良い初夢がご覧になれます。)
▼昨日近くのコンビニで朝刊を買い求めた。午前8時に行ったが1軒目は東京新聞しかなかった。しかたなくもう一軒のコンビニまで歩いて日経を買いに行った。日経と昨日のどこかのTVを見ていたら介護ロボットの話をしていた。TVで言えば施設にいるお年寄りにロボットを見せて「こういうのは良いですね」と強制的に言わせている。日経でも第二部で東大と東京芸大の合同ゼミで大学院生が目を輝かせて研究している風な写真が掲載されている。しかし本当に介護の現場にロボットが必要なのか考えていただきたい。医療とか介護の現場ではまずコミュニケーションをとることが大事の筈だ。ロボットに人間の微妙な感情が理解できず筈はない。それに介護の現場は、3Kの職場であるが低賃金で労働者は次々辞めているのが実情である。そんな介護ロボットを開発するカネがあったら、介護の現場にいる労働者の待遇を改善するべきである。
▼高性能の介護ロボットを作ったところで、高価で在宅介護には使えず、開発しているロボットメーカーが儲かるだけの話だと思う。

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January 01, 2011

元旦には遺言書を書くという人

Gantantree
(元旦のスカイツリー遠景)
▼あけましておめでとうございます。
新年にあたってわたしの好きな平家物語の冒頭部分をご紹介します。

祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらは(わ)す。
おごれる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。

▼わたしは通常玄米食で暮らしています。正月の餅はどうするかと言えば、これも玄米餅にしています。まさか自宅で玄米の餅つきをする訳にはいかないので、表参道にある「クレヨンハウス」か「ナチュラルハウス」に行って買い求めます。昨年も29日に行って買って来ました。クレヨンハウスを主宰しているのはご存知のように落合恵子さんです。彼女がそのブログで「毎年元旦にすること」という事を書いています。それは「遺言書」を書く事です。くわしくは3つめの★を読んでいただきたいと思います。
▼身のまわりに、まるで永遠の命をもっているかのような暮らしをしている人もいます。しかし人間はいつしか呼吸しなくなり、生命が途絶えると朽ち果てます。一派論で言えば50歳を過ぎたらその準備をした方が良いと思います。たとえ長生きしても記憶がはっきりして体力が保持できるのはせいぜい、75歳くらいではないかと思われます。今年も持ち物を増やさず肩肘をはらない生き方を、して行きたいと思います。
▼昨年中はこのブログを毎日ごらんいただき感謝しています。
昨年初めのこのブログ平均アクセス数は85でした。ブログにアクセス解析がついたのは5年ほど前の事で、そのときは60前後ではなかったかと思います。年末までに90という目標を立てたのですが、12月半ばにおかげさまでその目標を達成することができました。今年の年末は平均アクセスを100にする事が目標です。

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