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January 31, 2011

NHKHV「「兵士たちの記録/陸軍24師団」を見る

▼体調が戻ったので土日は映画館に通うことができた。一本はブルース・ウィリスの「RED」期待していかなかったが意外と面白かった。昨日は今週の「週刊金曜日」で紹介されていた、「バーレスク」である。これは今週の土曜に終わってしまうので、時間がある人はご覧頂きたい。二つともギンギンのハリウッド映画だったが、やはり脚本がいいと見応えがある。詳しくは明日以降にご紹介する。きょうの授業は屋外実習なので暖かくしていかなければならない。
▼29日NHKHV朝8時、「兵士たちの記録/終わりなき持久戦の結末/陸軍24師団」陸軍24師団とは北海道の旭川に本拠地を置く部隊で1万8千人いて、当時寒さに強いとされて満州に派遣されていた。ところが参謀本部が沖縄で米軍の血をより多く流させる。という決定の元、19年8月急遽沖縄に派遣される。兵士たちは初めて見る南国の風景にこんな綺麗なところは、初めて見ると感激した。また沖縄人々も「大和の兵隊さん」と大切にしてくれ、沖縄の唄を教えてくれたりした。所が米軍は20年3月に54万人の艦隊を派遣した。艦砲射撃は激しく、死亡した兵士の死体はすぐにウジが涌き3、4日で白骨化してしまう。
▼沖縄出身の兵士、伊礼さんは200人の米兵と対峙させられるが、手榴弾しかもたされなかった。そこで1個師団が(2500人くらい)対決するが小隊は全滅してしまう。大本営は皇王の防衛を主眼(つまり敗戦後も皇室の存続)に置いていたので、米軍の消耗と出血を促す以外の目的はなかった。兵隊は地下壕に潜って夜になると切り込み決死隊を突入させる以外の攻撃はなかった。それはとりもなおさず、死と同じ意味を持っていた。とくに沖縄の兵隊は郷土の沖縄を守る義務があるからと、挙手を求められたので決死隊の募集に手を挙げざるを得なかった。戦争にあって下っ端の兵士は常に犠牲を強いられた。
▼それでも大本営は「対規模な攻勢に転じる」として、首里から接近戦をするように要求して来た。それも作戦実行のたった6時間前の事で、思いつきとしか考えられないような作戦だった。兵士たちにとって、まさに飛んで火に入る夏の虫のようだった。だからそれの作戦は失敗し、責任の所在も不明になり2日で中止になった。大けがをした兵士たちは麻酔もないまま、「痛い、痛い」と叫びながら足を切断する手術をせざるを得なかった。手術ができない、あるいは中程度の怪我の兵士は放置されたままだった。しかし半数以上の兵士は手足がもげた状態であった。
▼ところが沖縄を指揮していた牛嶋中将は南部に転戦するとして、摩文仁に撤退する事を決めた。このとき動けない兵士には青酸カリが手渡される。また従軍看護婦は青酸カリを注射して回る。3名に注射したという元看護婦が登場したが、「栄養剤」だと偽って注射したが、命をすくわなければならない自分がそんな事をするのはとても惨めだったと述懐していた。ただ戦後は「軍医からの命令だったから仕方なかった」と自分自身を納得させて生きて来た。
▼ガマに潜伏している民間人を追い払ったことも事実だが、民間人がいるとそこには軍人がいると米軍に気づかれてしまうからだ。それに沖縄の方言でしゃべっていると、自分たちの情報が敵に流れたり、勝手に投降したりするとまずいので「沖縄語をしゃべった者はスパイ(間諜)として処分するという通達が出た事も確かである。牛嶋は自決し「最後の一兵に至るまで出血を強要すべし」という言葉を残した。しかし残された人々にとって、この阿鼻叫喚のガマを見て地獄とはあの世ではなく、この世にあると思えた。
▼先の伊礼氏は戦争はいつも弱い人が苦しむ、戦後65年たったが今も一度として戦跡に行ってみようという気持ちは起きない。沖縄は日本兵(つまり大和の)が上陸したから巻き添えになった人が増えたのだ。沖縄の人はあの戦争で9万4千人が死亡したが、それは本来死ななくてもよいはずの人たちだったのだ。

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