◇「兵士たちの戦争/軍旗海没、篠山第170聯隊」
▼昨日は「朝日ニュースター」の番組『ラーニング・プラネット』にで神戸大の高橋基樹教授が出演していた。テーマはアフリカ経済だったが、頭をガンに一発食らうくらいの凄い内容だった。わたしは開始から10分くらい後から見たのだが、全部見る事ができなくて残念だ。アフリカと東アジアの乳幼児出生率の比較から、言語・食料問題など多岐にわたってグラフで見せてくれた。さらに高橋がアフリカに行って体験した事はとても説得力があった。その最後の「セミの学生たちもアフリカにいってドラゴン桜の様な事をしてくれれば良いが、JICAからしてアフリカは狭い門である」と歎いていた。
▼続いて夜アルゼンチンの友人がパタゴニアで農業をしている、大金時子(おおがねときこ)さんの事を教えて下さった。1万7千坪の土地を450万円で購入して16年かかってようやく今の状態にたどり着く。最初の10年間は試行錯誤の連続で、自分たちの農法も地元の人たちにも理解されなかった。電気、水道、電話、新聞などはない。竈の火も火打ち石で着火させ、洗濯も日本から持って行った洗濯板を使ってお湯を沸かして自分で手を使ってゴシゴシ洗う。夫50歳、妻48歳と言っていた。夫妻の居間にはこれまた「ドラゴン桜」全巻が置かれて、時々読んでいる様だった。わたしはまだ読んでいないが奇しくも1日に二度も「ドラゴン桜」が出てきた。何かの機会に読まないといけないと思った。
▼昨年ご紹介した映画「氷雪の門」の中に「軍旗奉焼」という場面が出てくる。つまりソ連軍に樺太を占領されるのは時間の問題なので、天皇から預かった軍旗を敵に奪われる前に焼いてしまおう、という話だ。連隊長を演じたのは丹波哲郎だった。
▼NHKHV26日朝「兵士たちの戦争/兵庫篠山(ささやま)歩兵第170聯隊/軍旗海没」聯隊の軍旗は天皇から直接手渡されたので、天皇の分身であると位置付けられた。輸送船「ぼすとん丸」に乗っている時魚雷攻撃を受けて、まず連隊長からは「軍旗を持て」という指示があり「旗手」は軍旗を小脇に抱えて船から海に飛び込んだ。軍旗を守る兵士も完全武装で「海に飛び込め」という命令が出た。しかしいくら菊の御紋章を付けていても銃を背負っていては溺れてしまうので、武装は付けずに海に飛び込んだ。すると船は1分くらいで船首を突き立てるように船尾から沈没してしまう。「天皇陛下のために死んで参ります」と言って、出征したからには軍旗のない部隊は不名誉であるので、「もう内地には帰れない」と覚悟した。
▼渡辺連隊長は「軍旗は軍旗は」と叫んでいた。約1000人いた兵士のうち900人は死亡し、228人だけが助かった。軍旗が海没したことはすぐ参謀本部に知らされた。渡辺は重症を負って助けられるが割腹自殺を図る。だが発見が早く助けられるが、その後ノイローゼになってしまった。170聯隊の兵士は無差別で適当に各地へ分散された。ニューギニアのブナに派遣された兵士は絨毯爆撃の激しさは、すざまじいもので生きているのが不思議なくらいだった。上陸すると浮浪者の様な格好をした人々が食料や煙草を求めてやってきたが、それは先遣部隊で自分たちもそうなる事を暗示していた。
▼軍旗はこの他の聯隊でも全部で30旗ほど失っている。170聯隊は再下付願いを出したが受け入れられなかった。戦後分かったことは辻参謀が「ラバウルを失う事は南方の礎を失うことになるので、絶対認められないと」発言して妨害していたことが記録されていた。もう170聯隊は死の宣告を受けたに等しかった。戦争は生き残る事が目的なのに、170聯隊の生き残りは離散させられて配置されたのでその後どうなったかは今も正確に分からない。最初の軍旗というのは明治7年に天皇から近衛連隊に下賜された。
▼佐々木和子さんは兄の佐々木直之さんを、出征から1年で戦死したという通知を貰った。出征するに当たって、兄は爪を残して行ってくれた。厚生省なdで兄の消息を知ろうとするが、「第170聯隊などという聯隊は存在しなかった」と対応は冷たかった。戦友会などの行くと「170聯隊は勇猛果敢だったが、ニューギニアに行ってからはダメだった」という罵詈雑言ばっかりで切ない思いをした。和子さんは80歳を超えていると思われるが、「散り散りにされた170聯隊の兵士たちの最後を調べて汚名を晴らして、書き残さないと死んでも死にきれない」と原稿用紙に向かって訴えていた。
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