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June 26, 2011

◇「遙かなるふるさと/旅順・大連」を見る。

▼昨日書いた取材対象者に夜に直接連絡が取れた。最初は不在だったのでファクスを送るとしばらくして携帯に連絡があった。82歳のお年よりなのだが、逆に「現地の気球格納庫を見たい」とおっしゃる。1週間以内に下見をした上で、都内北部に住む方を現地にご案内しよう、と言うことで編集長に了解を得る。あとは戦争遺跡のHPを作っている方が見つかったので、サイトから直接お話をお聞きしたいとメールを送ったが、こちらはまだ返事がない。まぁこのように取材の準備はチャンスが大切なので、順調に進んでいる。
▼朝は「テンペスト」をシャンテシネに見に行こうと思っていた。しかし時間を確認すると朝は9時半で次は正午だった。時間のやりくりが難しいので、思い切って岩波ホールの羽田澄子監督の「遙かなるふるさと/旅順・大連」にした。ある程度予想をして行ったが、年配の方が圧倒的に多い。つまり戦前は40万人くらいの日本人が住んでいて、現在82歳の羽田もその一人だ。日・旅友好協会の4泊5日のツアーがあって、撮影の許可があって彼女も一員として同行する。羽田は足が痛くて杖をついているので、スタッフはカメラとディレクターの2人と思われる。しかしこの短い正味4泊のツアーで映画を作ってしまうのだから凄い。わたしにもし腕があれば7泊8日で、「南米縦断の旅」というような映画ができてしまう。だから画面を見て大声で懐かしがってしゃべるお年よりが多くて参ってしまう。後ろの席の年配の女性はジッパーを無神経に上映中なんどの開け閉めする。
▼◇「遙かなるふるさと/旅順・大連」旅順も大連も中国領土だったが、日本が山東出兵で租借地にする。しかし4国干渉でそれを放棄すると、ロシアが奪い取る。それを日露戦争で奪い返し、第二次大戦が終わるまで日本が占領していた歴史がある。わたしの興味は旅順の日露戦争遺跡のみであって、他はどうでも良い。映画は羽田が住む日本の家の近隣の住民の移り変わりから始まる。引き揚げて来た当時の面影はなく、まさに「行く河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」というあれだ。だがネットで探しても現在この地にいくツアーは存在しない。羽田は旅順に降り立ち昔の面影を探そうとするが、ほんの一部しかない。旅順といえば203高地の戦いが有名であり、残っている堡塁を見ると、これは太刀打ちできないと思う。それに旅順港では「杉野はいずこ」という広瀬中佐の歌も流れてくる。乃木とステッセルの復元された会見場。「軍歌」にでてくる棗の木はか細いから、植え直されたものだ。そして昔と同じく乃木の二人の息子が戦死した跡地には記念碑が残されていた。
▼大連は1898年に帝政ロシアの租借地となり、貿易港として発展を遂げ、日露戦争後は日本の管理下に置かれた。羽田が長く住んでいたのはこちらの方で、住んでいた家を訪ねると1軒の家を3家族がシェアしていた。そして通訳を通じて頼むと、快く室内を見せてくれる。家具は違っているが部屋がとても丁寧に使われているので、羽田は感激する。そんなことを何度もくり返す。日本が日露戦争に勝ったとき作られた記念碑は少女の頃はもの凄く高く感じた。そして学校行事がある旅に徒歩で登らされた。だが今は頂上まで道路が作られており、車で簡単にいくことができる。頂上から見る風景は当時の軍港の変わり果てた姿だった。
▼8月9日ソ連の参戦によって占領される。彼女は家の前にある湖に、花柄模様のスカートの普段着に着替えて散歩する。それまでは満鉄関係の会社に勤めていたが、もんぺでしか通勤できなかった。ソ連兵は「ものを寄こせ」とやってきたが、上官が紳士的な人だったので略奪などをされることはなかった。ソ連の占領後、羽田は郵便関係の労働組合の初期としてしばらく現地に残る。それはどうやらソ連の指示のもと、労組を左翼的な組織に編成させる任務を負っていた(あくまでも私の想像)だ。最後の引き揚げ便で帰国するのだが、再び画面は、今住んでいる家の回りとオーバーラップする。

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