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September 23, 2015

◇「NORIN10~稲垣権次郎物語」を見る。

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(長野のあけびの実です。バナナに似て美味)
▼足の痛みがなくなったか、確かめるため昨日は午後からは、首都圏反原連の国会包囲へえ出かけた。天気も夏のような日差しで歩きやすかった。日比谷公会堂の試写会は、すでに見ている「首相官邸の前で」なのでパスして、内幸町から国会正門めがけて歩いた。連休の谷間ということもあって正門前はいつもの金曜日より人出は少なめだった。まだみなさん先週の疲れも残っているのだろう。やらなければならないことはたくさんある。しかし身体は一つ。ツイッターで発信しているだけと違って、行動に参加すると。確実に半日はつぶれる。私も本は二日で一冊読んでたのに、そんなに読めないし、英語の勉強は二ヶ月ストップしている。デモの往復で「デモクラTV」を音声で聞いて、バスや電車の中で「週刊金曜日」を読むのが精一杯だ。先日本に夢中になって乗り過ごしてしまった。
▼それでも6人ほどの友人たちとあって握手し、会話をすることができた。信頼を益すのは直接会って話をする以外ない。反原連の新しいバッジを買う。最後のテント広場で「安倍政治を許さない」という金子兜太さんの文字を縮小印刷したプレートを一個買った。実は金曜日の夕方も手製の物を頂いたが、混雑で紛失してしまった。ま、誰かのバッグに付いていれば良いと考えることにする。
▼メルマガ最新号の末尾で、○×で済む、簡単なアンケートをお願いしたが、応募者ゼロ。今朝PCの前に向かっていたら何やら不思議なアイコンが点滅する。開くとプリンターメーカーが、自社製品の品質向上のため、通信料はお客様負担で、定期的にアンケーに答えて欲しいという内容だった。そういう虫の良い話はないので即削除した。ブログをご覧の方はどれだけ登録してくださっているか分かりませんが、わたしのYouTubeです。昨晩おかげ様で登録人数100人に達しました。3年間は長かったです。未登録の方はいますぐに登録をお願いします。来週からまた新機軸で、面白く、リアルに迫りたいと思います。
◇「NORIN10~稲垣権次郎物語」稲垣権次郎は富山県砺波の貧しい農家に生まれた。担任の教師は「お前なら東京帝大に入れる」とダーウィンの「種の起源」を読むように勧めてくれるが、貧農の父にそんなことは言えない。毎日悩んでいる姿を心配して父は本家に相談すると「カネの心配はするな」と援助を申し出る。上京し、帝大の指導教官から、農商務省(今の農水省)に推薦しレ貰う。彼は工場よりも「圃(ほ)場」に興味があったのだ。折から国は、列強と対等な立場で物事を行うために、食糧増産をしなければ生らなかった。そのため寒冷地で、米を増産しなければならなかった。派遣されたのは新潟で10年くらい苦労をして今のササニシキを作ることに成功する。
▼研究半ばにして今度は盛岡に行くことになる。行きたくはないが宮仕えだから仕方ない。東北の研究施設で命じられたのは麺やパンを作るために小麦の品種改良の仕事だった。新種改良とは細かい受粉から生育と気の遠くなるような仕事で最低でも7年から10年もかかる。当時東北では大飢饉があって娘を売るような事が日常茶飯事に行われていたので、政府はこれを何とかしなければと考える。稲塚は麦の背丈を短くすれば台風などにも強い品種が作れると考える。そこで完成したのがNORIN10である。そうこうしているうちに、日中戦争が始まる。彼は中国で新種改良をすべく出張を命じられる。中国の風土にあった新種を作ろうとしたが、敗戦を迎え、追われるように帰国するが、妻は心痛で病に倒れる。
▼帰国後権次郎は故郷で田んぼ整備事業に従事する。終戦直後小麦農林10号の種は米国に渡り、ノーマン・ボローグ博士により改良された「NORIN TEN」は世界の小麦の70%を占めるようになった。東北を飢えから救おうとした稲塚の思想は世界を飢えから救うことになったのだ。

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