原発は独裁国家でないと動かせない。筑波大斉藤環さん
▼今朝NHK第一ラジオ6時45分の「視点論点」で筑波大の斉藤環(たまき)さんが東海第二再稼働について要旨以下のような発言をしていた。アナウンサーの再稼働には周辺自治体の同意も必要になっている、と言う前置きに続き斉藤氏(以下Sと略す)は次のように語る。自分の住んでいる水戸市も避難区域に入る。もし原発事故が起きた場合「避難」しなければならなくなる。安全な場所は到底確保出来ない。5km圏内でも避難が必要な人を移動させるにも3000台のバスが必要になる。支援が必要な人は1500人いる。車いすのような福祉避難車両千台は必要になる。こちらの確保も非常に難しい。茨城県はやむを得ず放射線物質を防ぐフィルターがついた施設に移動させる事を検討している。
A(アナウンサーの略)東海第二の周辺には96万人が住んでいると言われている。ところが避難計画は一部の自治体に留まっている。屋内誘導を検討しているという。今朝は原発問題を日本の組織文化から考えていただきます。
S 原子力発電というテクロジーの欠陥というより、それをコントロールする側に問題がある。日本独自の組織文化のおかげで,原子力発電をコントロールできないのではないかと考える。
A 何故でしょう?
S フクイチ事故の時現地にいた原子力保安員の職員4人が逃亡する事件が起きた。
A 当時の原子力防災マニュアルでjは「原子力保安検査官は,原発で重大な事故が起こった場合、原則として事故現場に行って,現場の状況を確認しなければならない。とされていました。ところが事故調査委員会の報告を見ると、地震から3日目の午後5時頃には保安員の職員は現場から退避している。
S 職務を放棄したにも関わらず、当該の処分は受けておらず、こういう事は他の国では考えられない。身内への寛容さです。
例えばアメリカの原子力規制委員会のスタッフが「信じられない」「職場放棄してよいというルールがない。このことが問題である。しっかりとした信賞必罰のルールがあれば、しれによって組織は健全化する。元々そういう事故を想定していないために、こういう事が起きてもしっかり処分ができない。組織全体に関わる問題である。
A そのほかには原発に関してどのような事を感じますか?
S フクイチ事故の話になる。事故後の処理がずさんである。例えば福島泰一弁髪二号機の取水口の亀裂から汚染水が漏れた。これを止める手法が確立されていなかったために、やむえず、おむつの素材、大鋸屑,新聞紙を投入してうまく行かなかった。ちょっと技術先進国として考えられない現象があった。先端技術が用いられるべき場所で、現場は手さぐりと云う原始的な方法で,対策が取られてしまう、と言う事への絶望感。まったくこういうlことを想定していなかったのか?驚きと絶望感です。これが忘れがたく記憶に残っている。
▼そこから考えて行くと1999年にJCOの臨界事故があって、この時も柄杓とバケツで核燃料を確保しようとしていた。信じられない様なローテクのロジーが為されていた現実が明らかになった。そういう事が連想される怖い話だった。
A 斉藤さんがおっしゃる日本型組織文化もしくは日本独自の組織病理というは、そもそもどこからきているのでしょうか?
S これは旧日本軍の病理を分析した「(日本軍)失敗の本質」という本の中で指摘されていることが問題になっている。まず、長期的な視野の元で、プランを立てて、いろいろな事態を想定して,対策を立てるという事がなされていない。次に責任者が不在。今回の事故でも誰が責任を取るか明確にされていない。今裁判が進んでいるが当時の東電の社長が辞任しただけだ。行政上の責任は誰もとっていない。これは全般的に意思決定のプロセスの問題である。会議で理念とか理想を語ることが,はばかれるような雰囲気がある。当面の対策のみに精進した狭い視野で物事を考える慣習になっている。
▼結果的にそれに関わっている職員とか、周辺住民の健康とか生命についての対応は後回しになってしまう。第二次大戦において死者の6割が戦死ではなく餓死だったと云われている。これも兵站という考えが無視された結果である。会話がなかったという事は、つまり失敗に対する対応策がなく、被害が拡大してしまった。さらにこういう問題で議論をしたり、しっかり記録をしておこうという言葉の軽視が根底にある。今回の事故い際しては会議の議事録がつくられなかった、という記録の不備が一貫してある。言葉を非常に軽く見る事が基本にあると考える。例えば「語られた偽装」とか、理念に向けて現実を変えて行こうとか、情緒的な現場追認を前提として、事実が目の前に突きつけられていても,見ようとしない。いわゆる正常性バイアスが長期的視野に立った、対策を立てるのを難しくしている。
A 保安員の職員の退避の件です。このまま留まっていたら自分達にも危険が及ぶと考えていたようだ。自分達の身を守ると云われるとそれを否定できないように思う。
S 人道的視点に立って考えると,保安員の人たちの行動を否定できない。悪い方で考えると、避難した結果として被害は拡大している。その結果、被害が1000万人にも拡大してしまう。それから考えると退避した事に対する処分:処罰がないという事に対して組織のあり方自体には問題があると考える。ただ事故が起きた時点で誰かが生命を落とした解決を取らなければならない、という時点でその技術が人間のコントロール下におかなければならない。倫理敵な技術とは言えない。もしその場に留まる事を絶対的な命令とするならば、それは旧ソ連のチェルノブイリのような。事故処理のために新しい情報を伝えられないままで、60万人というビッグビダー(清掃人)人たちが動員され、余計な被害が増えた。これは当時のソ連が全体主義的な国家だったから情報を公開しないで、「その場に留まれ」と作業を続けろと命令する事が出来た。日本は民主主義国家なのでそういう命令することは出来ない。これは皮肉でいうのです。完全な全体主義国家でないと原発は維持する事はできないと考えています。わたしは今止まっているフクイチと東海第二で廃炉技術の確立をすべきだと考える。そういテクノロジーを海外に輸出できないか、と考える。(文字おこしの責任はブログ筆者にあります)10分の録音テープ起こしに一時間もかかってしまった。
Recent Comments