« 行方不明の猫ちゃんと忠臣蔵&規制委員会の記者たち。 | Main | 「戦車闘争」に参加した方からツイートがあった。 »

December 24, 2020

ポルポレ東中野で「戦車闘争」を見る。

▼戦車闘争とは米軍相模原補給廠から修理されたⅯ113兵員輸送車をノースピアからベトナムに送り返そうとした、ことに反対した1972年横浜で起きた事件である。それまでは、米軍の要請で何も疑問もなく修理しベトナムの戦場に送られていた。しかしノースピアの手前にある村雨橋の手前で、ストップされた。重すぎて箸が壊れてしまうんじゃないか?と。相模原市長は「無理だろう」という結論を出す。そして当時の飛鳥田一夫に相談すると「道路交通法の重量制限にひっかかる」という結論だった。

▼当時相模原市議会議員の社会党議員はいきりたち、村雨橋の先の交差点でピケットを張って、市民団体から政党、学生団体が「止めろ」押し掛ける。映画で最初に登場するのは高校の後輩にあたる吉岡忍氏(日本ペンクラブ代表)である。さらにもう一人昨年オスプレイ取材でお会いした頼和太郎氏で、あり当時東大の自治会に所属していた。名刺交換し、講演のビデオ撮影をお願いしたら快くOKしてくださった。吉岡氏は当時べ平連でジャテックという脱走した米兵をソ連経由で北欧に脱出させる運動をしていた。デモ隊は様々な人たちが集まって来た。市民団体で評判が悪かったのは某政党で、過激派学生が機動隊に追われて彼らのテントとに逃げ込むと「暴力学生の来るところじゃない」と追い出すことだった。

▼機動隊は完全武装でやってきて排除する。それはジュラルミンの盾を押し立て、デモ隊の足や下半身と狙って制圧しようとする。ジュラルミンの盾は足の骨など簡単に折れてしまうのだ。ある法学部の学生は司法試験を受けようとしていたが、その怪我と起訴され司法試験を受けられなくなって一生を棒に振ってしまった。

▼要するに相模原補給廠もノースピアまでの道も「日米地位協定」に守られた事実である。だから米軍と日本政府の考え方は「道路興津法を変えてしまえば良い」という理解だった。70日間にわたる戦い(妨害行動)も機動隊の投入によって制圧された。伊勢崎賢治さんは「日本の平和勢力は憲法9条が盾になる、と信じているがそれは間違っている。」地位協定の方が優先して9条などあっても痛くもかゆくもない。米人記者が三沢基地に行ってパイロットに聞いた。「どこまで爆撃にいくの?」シリアとか中東の名前が挙げられた。つまり日本の基地だけ提供してもらえれば他はなにもいらない、というスタンスなのだ。日曜日朝NHKで「コザ騒動」を見た。勝手気ままに闊歩する米軍人が沖縄の人たちは許せなかったのだ。だから米軍MPは拳銃を数十発発射した。

▼日本の基地を根本から考えさせられる映画でした。

|

« 行方不明の猫ちゃんと忠臣蔵&規制委員会の記者たち。 | Main | 「戦車闘争」に参加した方からツイートがあった。 »