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March 28, 2021

反原連のラスト金曜コールに参加してきた。

▼課題は山ほどある。しかし自宅に引きこもっている人は「クリック」一つで家から出て国会まで決して出て来ようとはしない。Twitterとは便利な「疑似意思表示マシン」である。これで世の中変わると思っているのならノー天気で支配者にとっては、主人公を家に閉じ込めておく便利なツールである。そして「最近のマスコミは酷いね」でおわり。マスメディアとは民衆を支配するツールである。さらに言えばツイッターは、あたかもご本人が現場にいるような臨場感を持たせてくれる。ミャンマーの現在を見ても、支配者は路上で抗議する人を狙い撃ちで殺害する。

▼一例が「原発が悪い」と思ったら電力会社の前で抗議の声をあげることだ。もしくはわたしの友人の一人のように、毎日1枚抗議のハガキを書いて電力会社の社長に送りつけている人もいる。Twitterよりも手書きハガキ1枚の方が遥かに効果はある。どうか時間をやり繰りして、ひと月に一度くらいは抗議の場に来て欲しい。

▼金曜日反原連の首相官邸前でラストコールがあったので予定を変更して官邸前まで出かけた。いつものカメラマンや記者のたまり場ど三脚を組み立ててツイキャスの準備をしていたら旧知のA紙B記者にあった。彼とは川内原発抗議に行った時、初めてあった。取材されわたしのコメントは実名で新聞に掲載された。外に出て行動することは、知人を作る最大のチャンスである。しかめっ面してスマホの画面に向かっていても、何の意味もない。B記者には名刺を渡し自分の正体を明かしてある。だから自由に話をできる。開口一番「この10年の抗議が今晩で終ってしまうのは感慨深いものがあります」とはB記者の弁。わたしは権力志向の反原連の方針に全面的に同調はしていない。そのバックボーンになっているのは「終章官邸前で」の映画を作ったあの学者の影響だろう。B記者の原稿はきょうの新聞に長い原稿が掲載されていた。

▼わたしも最初に国会に行ったのは10年前の最後の金曜日だった。ところが当時は地理が分からず、有楽町から地下鉄で霞が関まで言って、国会まで歩いた。当時は国会に来ることがトレンドになっていて、参加者も銀ブラのつもりで来ていた。さらに帰るときは地下鉄入り口で女性警察官が「お気をつけてお帰り下さい」と言っていた。しかし周りは知らない人ばかりで心細かった。いつも記者会館の手前で並んで抗議していた、しかし満員電車のように息苦しかった。そこは半年で止めて国会南門の方に変更してから普通の参加者と話ができるようになった。いろいろありすぎて書ききれないが、小沢一郎が来たこともあった。あの頃が一番良かったと思う。

▼ラスト金曜日は一般参加者は200名くらいだったと思う。予定がいきなり延長されたので、明日の予定もあるので7時半離脱した。

 

 

 

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March 20, 2021

米国務長官の狙いは何だったのか?

▼毎日PCのキーボードを苦労しながら打っています。打っては消し、消しては打つ。毎月のルーチンワークに3日もかかりました。アイデアをひねりながら、取材のネタもひねり出し、取材相手と交渉し、企画を練って編集長に提案します。もうひねり出すアタマもすっかり老化してしまったか?先日の木曜日議員会館前で話したのは以下のようなないようです。アメリカの国務長官は母国から直接横須賀海軍基地にやってきました。彼らは手間を省くため、ビザを持たずに日本領土に軍用機でやってきます。そこからはヘリか車で赤坂の米大使館にきます。その国務長官がタラップを降りるとき、彼はスーツの襟にバッジはつけていませんでした。ところが夜の報道ステーションで彼はリモートで出演した。その時のスーツの右襟には星条旗と拉致被害者救援のバッジがつけられていた。わたしが確認する限り国会議員で共産党議員以外は、全員このブルーの鯉のぼりを小型にしたバッジを付けている。つまり「踏み絵」になっている。

▼拉致被害者問題では、安倍晋三の時代には一切、、北との交渉はしなかった。それで被害者らは困って米大使館に頼んだらしい。今回も特使が来る前に米大使館詣でをしていて、彼らは面会している。わたしの知る限り14日、米軍基地に反対する民族派右翼の皆さんが「3月10日の空襲はジェノサイドだ」という抗議をしたとき、抗議文書をアメリカ大使館に臨時大使に渡すよう持参したが、受取を拒否した。実はアメリカ大使館の内情に詳しい人に聞くと、大使館では「自民党や被害者」のいう拉致問題の解決」は何を指すのか分からなくて困っているという。1)横田めぐみさんの安否確認と釈放なのか?2)被害者全員の釈放なのか?3)特定人物の釈放なのか?日本政府も北と直接会話はしていない。だからめぐみさんのお母さんが来ても「聞置く」だけだ。

▼国務長官は日本人がテレビを見ると思って、わざわざバッジを付けたのだ。それが証拠に翌日、韓国の報道ではバッジんは付けていなかった。アンカレージの米中歓談では聖女機バッジだけだった。ツープラス、ツーで何をはなしたのか?おそらく中国包囲網で共同歩調をとることだろう。たとえ尖閣がどうなってもアメリカの利害とは関係ない。アメリカが戦争をする場合、議会の決議が必要になる。日本を中国から守るため、米兵の血を流すことは絶対ありえない。アンカレージの記者会見の話もお笑いである。つまり北京放送をわざわざ聞くアメリカ人はいない。テレビカメラがいるうちに1時間、も大宣伝をしよう、というのが中国のスタンス。多少元を取ったのがアメリカ政府である。話が長ければ聞く人は喜ぶのか>中国はそれが分からなかった。ついでに言うとライン問題だ。ラインはもともと勧告の会社である。盗聴するならば、韓国人の方が日本語を近いする人が圧倒的に多い。日本政府がいまなぜラインを問題にしたかと言えば、中国包囲網でアメリカと歩調を合わせたことがある。重要な文書のやり取りはネットを介してはいけないというのは常識中の常識だ。ラインを使って交付文書を発行していた千葉県庁はよほと吞気なところである。

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March 10, 2021

東京大空襲の下にはふつうの人が逃げまどっていた。

▼きょう3月10日はかつて東京大空襲があった日だ。主権回復目ざす会のみなさんがアメリカ大使館前で抗議行動をするというので許可を得て撮影に出かけた。外は以外に風が強かった。わたしはアメリカ大使館前には新橋から渋谷行きの5番バスにのり霞が関3丁目で下車する。昔NCR金銭登録機の会社があった場所は、いまJTビルになっている。ビルの前は物々しい雰囲気で装甲車が2台止まっていた。わたしは新顔でカメラの三脚を組み立て始めたら警官に誰何され「Nさんの所に来た」と答えた。

▼わたしも話をする準備をしていったが、強風で三脚が倒れたのでやめた。予定原稿は以下の通り。東京大空襲については柳美里の最新刊「JR上野駅公園口」にも少し触れている。それは噺家の三平の奥さん香代子夫人が東京に「310東京大空襲の記念碑が何もないので独自に立てた、というものです。それは公会堂の前に建てられている。実は1944年3月10日(土曜日)は軍人の日で休日だった。そのため千葉など近郊に疎開していた学生はそろって3連休という事で親元に帰省させられていた。そのため学生の犠牲が多かった。爆撃を指示したのはカーチス・ルメイである。かれはハワイの日系人の家屋を取り壊しアメリカ本土に移築し瓦や畳を燃やすにはどんな爆弾が効果があるか実験を繰り返した。それが集束型焼夷弾で後々ベトナム戦争でナパーム弾として完成させた。

▼さらにルメイはそれまで1万メートルから8千メートルの高高度で爆弾を積んだB29から爆弾を落としていた。それはパイロットが怖がるからだ。ルメイは精密爆撃をするために1800メートルから2千メートルに下げた。そのため目標をさらに正確に爆弾を落とす事が出来た。

▼先日なくなった半藤一利さんは向島に住んでいた。その同級生がまだ生きているので、そのよしみで図書館主催が講演会に何度も来てくれた。わたしも直接質問してお話したことがある。それで中学生なのに今の花王石鹸墨田事業所の隣にあった海軍の軍需工場で機関銃弾の最終点検をしていた。空襲の時浅草方面に逃げた人はみな死んだ。半藤さんは平井方向に走った。だが新中川があった。今でも流れは200mくらいある。そこのいかだに潜り込んだ。しかし川に中央まで来た時流されていた女の人を引き上げようとしたら逆に引っ張りこまれ自分が沈んでしまった。川底についても上の方が少し明るかった。しかし息は続かない。もうだめかなと思った瞬間いかだのおとなの人が襟をつかんで引き上げてくれたので助かった。

▼今日の東京新聞の夕刊には王貞治さんが、バス停で1個先に実家があり、空襲で逃げた話が出ている。わたしが上京した当時は国電の中を傷病兵の恰好をした男性が包帯をアコーデオン姿で「異国の丘」を弾きながら、募金を集めていた。

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March 03, 2021

金曜日植村社長の備忘録

▼ノートPCを使って書いたブログが消えてしまった。疲れたが、気力を取り直してもう一度書こう。ケーブルTVの具合はどうにかなった。しかし新しいモデムの隣に身にコンポを置いてあるが、真夜中に突然電源が入ってしまう。ボリユームを最小にしてシールド代わりにプラスティックの下敷きのマットで覆ってあるがまだどうしようもないので音量を最低に絞ってある。ま、作動には問題ない。

▼毎年頼まれている原稿は今朝から2日で一気に書き上げてメールで送った。これで気分は楽になった。

▼新しいモデムにしてから録画の設定は1週間単位簡単にできるようになった。そこで見始めたのはNHKBS「火野正平の心たび」である。たまたま見たらはまってしまった。そこに見えるのは肉親との再会や別れの場面を30~40年たって見比べると心を打たれる。3つほど例を紹介する。1)秋田から北海道に入植した女性。青函連絡船で函館で降りたら、占い師から「馬を2匹飼うと成功する」と言われた。行き着ついた道東の原野だった。父は馬を二匹飼って呼ぶと不思議なことに出て来る。自分が真似しても弟が真似しても出てこなかった。やがて札幌に行くことになって現地で子どもの反対を押し切って二匹の馬を手放した。それを資金にして蕎麦工場を作って後に成功した。占い師の話は本当だった。

▼小樽で単身都会に出てきて海が見える街角の場所でさみしくなるといつも街角から故郷の海の方向を見ていた。

▼ここ数日の東北宮城の話。江戸川区に住む70歳の男性。母親は離婚して祖父母の実家に預けられた。中居の仕事をしていた母は年に数回会いに来てくれた。母が船で帰るとき悲しくて最上川でおぼれるところまで母を追いかけた。90歳少々の母は認知が始まっているが昔のことは良く覚えていてくえっる。

▼今日も津波で村がすっかり消えてしまった話だった。同級生とは仲良しで東京から帰ると必ず会って話をした。ところが津波で彼女は行方不明になって残ったのは母親と二人の息子だけになった。彼は考えた挙句、自分は中学校時代からのアルバムを持っていたので写真屋さんに頼んでアルバム2冊で記念品を作った母親に渡したらとても喜んでくれた。わたしは311の津波シーンの録画ビデオを見るのが好きだったが、もうこの話を聞いてみるまいと思った。

▼わたしは貧乏なので定期購読している週刊金曜日は半年に一度、9千円の購読料金をはらっている。最新号に実質的な社長である植村隆さんのコラムでこんなことを書いていた。植村さんは北海道にご自宅があるらしい。東京には某団地にお住まいらしい。ある日会議が終って自宅近くで大量の食糧をトートバッグ2個買い込んだ。家のドアをあけようと思ったらカギがない。記憶をたどってみると会社に忘れて来たに違いないという事になる。しかもリュックいはノートPCが2台入っている、仕方なく郊外の団地から2時間近くかけて神保町の会社にたどり着く。たしかに鍵はあった。しかし終電近い電車で家に戻る気力はなく、会社に泊まったという。カネよりカギが大切だという事を思い知ったという。植村さんはパスケースに皮の紐をつけ、自宅のカギとUSBメモリーをつないでいる。わたしの場合も危険を回避する意味で財布に布の幅広紐をつけ、スイカを入れたケースにつないである。スイカのケースには金属製の環をつけ、そこに自宅のカギとUSBを結んである。これは、ハサミで切らない限りはずれない。

 

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