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March 10, 2021

東京大空襲の下にはふつうの人が逃げまどっていた。

▼きょう3月10日はかつて東京大空襲があった日だ。主権回復目ざす会のみなさんがアメリカ大使館前で抗議行動をするというので許可を得て撮影に出かけた。外は以外に風が強かった。わたしはアメリカ大使館前には新橋から渋谷行きの5番バスにのり霞が関3丁目で下車する。昔NCR金銭登録機の会社があった場所は、いまJTビルになっている。ビルの前は物々しい雰囲気で装甲車が2台止まっていた。わたしは新顔でカメラの三脚を組み立て始めたら警官に誰何され「Nさんの所に来た」と答えた。

▼わたしも話をする準備をしていったが、強風で三脚が倒れたのでやめた。予定原稿は以下の通り。東京大空襲については柳美里の最新刊「JR上野駅公園口」にも少し触れている。それは噺家の三平の奥さん香代子夫人が東京に「310東京大空襲の記念碑が何もないので独自に立てた、というものです。それは公会堂の前に建てられている。実は1944年3月10日(土曜日)は軍人の日で休日だった。そのため千葉など近郊に疎開していた学生はそろって3連休という事で親元に帰省させられていた。そのため学生の犠牲が多かった。爆撃を指示したのはカーチス・ルメイである。かれはハワイの日系人の家屋を取り壊しアメリカ本土に移築し瓦や畳を燃やすにはどんな爆弾が効果があるか実験を繰り返した。それが集束型焼夷弾で後々ベトナム戦争でナパーム弾として完成させた。

▼さらにルメイはそれまで1万メートルから8千メートルの高高度で爆弾を積んだB29から爆弾を落としていた。それはパイロットが怖がるからだ。ルメイは精密爆撃をするために1800メートルから2千メートルに下げた。そのため目標をさらに正確に爆弾を落とす事が出来た。

▼先日なくなった半藤一利さんは向島に住んでいた。その同級生がまだ生きているので、そのよしみで図書館主催が講演会に何度も来てくれた。わたしも直接質問してお話したことがある。それで中学生なのに今の花王石鹸墨田事業所の隣にあった海軍の軍需工場で機関銃弾の最終点検をしていた。空襲の時浅草方面に逃げた人はみな死んだ。半藤さんは平井方向に走った。だが新中川があった。今でも流れは200mくらいある。そこのいかだに潜り込んだ。しかし川に中央まで来た時流されていた女の人を引き上げようとしたら逆に引っ張りこまれ自分が沈んでしまった。川底についても上の方が少し明るかった。しかし息は続かない。もうだめかなと思った瞬間いかだのおとなの人が襟をつかんで引き上げてくれたので助かった。

▼今日の東京新聞の夕刊には王貞治さんが、バス停で1個先に実家があり、空襲で逃げた話が出ている。わたしが上京した当時は国電の中を傷病兵の恰好をした男性が包帯をアコーデオン姿で「異国の丘」を弾きながら、募金を集めていた。

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