26日NHKで中村哲さんの番組を見た。
▼木曜日原子力規制委員会で「汚染水の海上放出に関する会議がある、という告知があったので、規制委員会にメールで申し込んだ。しかしこの方式は1年前に終わっていた。それでもその時は自動車の運転免許証をファーストビル入り口と13階の海上前で見せたら入れてくれた。うっかりしてわたしがいけないのだが、今回はそれが通用しなかった。30分またされた挙句、長い道を赤羽橋まで延々と歩いて帰って来た。帰り道はロシア大使館の前に出た。この辺で道に迷っても東京タワーの形状でどこにいるか見当はつく。この日は会議が終わったら抗議でもやるかも知れないと思ったので三脚とビデオカメラを持って往復で」7000歩歩いたのでかなり堪えた。しばらく行くのはよそう。
▼昨日午後はNHKでマグサイサイ賞の生い立ち、ペシャワールで狙撃され死亡した中村哲さんの生き座間を2時間くらいのドキュメントでやっていたので録画して見た。振り返ってみると、わたしは中村さんの事を10分の1も知らなかった。医師として患者を長生きさせればそれで仕事は終わりか?患者にとって幸せとは何か、中村さんは真剣に考えていた。そして迂回する灌漑用水路を作っているとき、愛する息子さんはひん死の床にあったが、そのことはわずかな人しかしらなかった。
▼わたしが中村さんの事を知ったのは用水路を作る頃。そして無医村なのに中村さんの事を聞きつけて遠方から、老若男女のらい病患者押し寄せる。「体を清めるきれいな水さえあれば、彼らはもっと楽になるはずだ。」これも井戸掘りの一つの理由になっていた。彼が医科大で精神科を学んだ。しかしらい病患者が多いことをすると、まだ苦闘している韓国までらいの治療法を学ぶために行って勉強した。医学だけでなくトラクターの運転免許も取りにいっている。
▼一番苦労したのは灌漑用水の分岐点である。本流から分岐させ食料の麦を作る方向に本流を曲げなければならない。本流が強くて曲がるべき支流の堰が流されてしまう。生地の九州の川は蛇篭を作って曲げさせた。蛇篭とは、太い針金で出来た風黒に石を詰めて安定、強度を保つ方法である。中村哲さんのお爺さんは芥川賞作家火野葦平の小説「花と龍」上巻に出て来る手配師である。中村さんの身体にも仕事がないアフガンの人たちを組織する能力はお爺さんの血が流れていたのだ。息子さんが危篤になったときも帰国できなかった。「あの世で会おう」と誓ったという。それにしてもダムの前は診療所を作るために莫大なお金が必要だった。アフガン政府は作ろうとしないから自分で作らねばならない。中村さんを支援するペシャワール会の人々は、一時帰国するたびに講演会を開いていた。「いまこういう理由で、億のお金が必要だ」、と訴える。中村さんの講演を聞き終えると徴収は大きな金額のお札を惜しむ様子もなく、当然の事としてカンパ箱に入れて帰っていく。録画ビデオは後30分ばかり残っている。この2時間の番組で人間としてどういきなければならないか教えてもらった。
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