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December 27, 2021

26日NHKで中村哲さんの番組を見た。

▼木曜日原子力規制委員会で「汚染水の海上放出に関する会議がある、という告知があったので、規制委員会にメールで申し込んだ。しかしこの方式は1年前に終わっていた。それでもその時は自動車の運転免許証をファーストビル入り口と13階の海上前で見せたら入れてくれた。うっかりしてわたしがいけないのだが、今回はそれが通用しなかった。30分またされた挙句、長い道を赤羽橋まで延々と歩いて帰って来た。帰り道はロシア大使館の前に出た。この辺で道に迷っても東京タワーの形状でどこにいるか見当はつく。この日は会議が終わったら抗議でもやるかも知れないと思ったので三脚とビデオカメラを持って往復で」7000歩歩いたのでかなり堪えた。しばらく行くのはよそう。

▼昨日午後はNHKでマグサイサイ賞の生い立ち、ペシャワールで狙撃され死亡した中村哲さんの生き座間を2時間くらいのドキュメントでやっていたので録画して見た。振り返ってみると、わたしは中村さんの事を10分の1も知らなかった。医師として患者を長生きさせればそれで仕事は終わりか?患者にとって幸せとは何か、中村さんは真剣に考えていた。そして迂回する灌漑用水路を作っているとき、愛する息子さんはひん死の床にあったが、そのことはわずかな人しかしらなかった。

▼わたしが中村さんの事を知ったのは用水路を作る頃。そして無医村なのに中村さんの事を聞きつけて遠方から、老若男女のらい病患者押し寄せる。「体を清めるきれいな水さえあれば、彼らはもっと楽になるはずだ。」これも井戸掘りの一つの理由になっていた。彼が医科大で精神科を学んだ。しかしらい病患者が多いことをすると、まだ苦闘している韓国までらいの治療法を学ぶために行って勉強した。医学だけでなくトラクターの運転免許も取りにいっている。 

▼一番苦労したのは灌漑用水の分岐点である。本流から分岐させ食料の麦を作る方向に本流を曲げなければならない。本流が強くて曲がるべき支流の堰が流されてしまう。生地の九州の川は蛇篭を作って曲げさせた。蛇篭とは、太い針金で出来た風黒に石を詰めて安定、強度を保つ方法である。中村哲さんのお爺さんは芥川賞作家火野葦平の小説「花と龍」上巻に出て来る手配師である。中村さんの身体にも仕事がないアフガンの人たちを組織する能力はお爺さんの血が流れていたのだ。息子さんが危篤になったときも帰国できなかった。「あの世で会おう」と誓ったという。それにしてもダムの前は診療所を作るために莫大なお金が必要だった。アフガン政府は作ろうとしないから自分で作らねばならない。中村さんを支援するペシャワール会の人々は、一時帰国するたびに講演会を開いていた。「いまこういう理由で、億のお金が必要だ」、と訴える。中村さんの講演を聞き終えると徴収は大きな金額のお札を惜しむ様子もなく、当然の事としてカンパ箱に入れて帰っていく。録画ビデオは後30分ばかり残っている。この2時間の番組で人間としてどういきなければならないか教えてもらった。

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December 16, 2021

真珠湾80周年関連番組を録画して一応全部見た。

▼年末の仕事で目が回るほどの忙しさだったが、真珠湾攻撃関係の作品はすべて見た。「トラトラトラ」長いが通して見た。最初からハルノートは受け入れられない、という前提で日本軍は動いていた、本国からの電報の清書をアメリカ人雇用者に頼むわけには行かず、交渉団の一員が二本指でパチパチとタイプで清書している間にアメリカは日本の秘密電報をすべて解読していた。だから映画でアメリカはだまし討ちを演じているのは不自然である。近年でもアフリカで爆発テロで米兵が3000人くらい死亡したことがあったがそれとて国益を優先するために、「負け」を演出することくらいは朝飯前でである。だから映画の中ダイヤモンドヘッドの頂上にレーダーを作ろうとしたが環境団体の抗議で工事が遅れたから、日本軍の急襲を知り得なかったというのも嘘である。「不意打ちで卑怯な日本軍」をことさらに演出しているのだ。

▼毎週やっている中野という女性脳学者がでている2時間番組は、どうして日本は戦争に突っ込んで行ってしまったか?という番組の分析は一番優れていた。天皇の弱気なところと、自分の意見(つまり早期収拾)論の味方を作れなかったところが最大の弱点であった。大体山本五十六が燃料不足を見抜いていた。しかも戦争が始まる前はアメリカから大量に輸入していた。山本自体これからは航空戦になる、と見抜いていたのだから「緒戦の勢いだけで勝てる」と空想していた軍部の幹部こそお人よしとしか言えない。

▼10日頃NHKではアメリカのガンカメラの分析をしていた。アメリカの航空機はプロペラと同じ位置に動画カメラを設置して爆撃の効果を検証していた。そのフィルムを見ればアメリカ軍が、どこで何を狙っていたがすべて分かる。時に逃げまどう人が、民家や工場が狙われている。アメリカは爆弾の性能を上げるためにナパーム弾の原型を作り上げる。ナパーム弾動いているものを見つけてすべて焼き尽くす。生物が爆弾の下にいれば空気を断って焼き尽くす。ベトナム戦争の例を見るまでもなく、実験では生きた犬を拘束して爆弾を投下して焼くのだ。このとき捕獲された犬は針金で縛られていた。つまり酸欠状態を作り出していたのだ。

▼最初利用したのはフィリッピンだった。もはやアメリカはフィリッピンは日本を匿うジャップの味方だと認識していた。だから森や家、野原ごとフィリッピン人を焼き殺していた。さらに不思議なのは台湾では工場を狙って爆破していた。何故か?日本軍は飛行機の燃料が足りなくて困っていた。軍部が考えたのは松根油だけではなく、台湾のサトウキビを絞って取ったアルコールを燃料に混ぜて使うことだったのだ。戦後分かった事はアメリカはそれを探り出し、製糖工場を狙って無差別爆撃をしていたのだ。だから飛行機の機首にあるガンカメラでは民家だけではなく、フィリッピンや台湾の工場まで無差別攻撃の対象となっていたことが分かるのだ。

▼学者はアメリカ軍のガンカメラの映像を取り寄せ地図と現在の地形を比較して場所を特定していたが地道な作業だと思った。

▼さらに驚いたのは千葉県香取郡にも特攻隊の基地があったこと。これは硫黄島がアメリカ軍に占領されそうになったとき、8時間かけて攻撃に向かったという話だった。

▼ユージン・スミスの従軍記者日記も見た。彼はカメラマンで身を立てたかったのでアメリカで学校に通って腕を磨こうとしていた。まず米軍の従軍記者になる。身体をはって撮影するのだが、撮ったフィルムがすべて使われない事がわかる。彼の移動の場面を見ていると右手に小型で薄っぺらいタイプライター状の機械を持っている。おそらくこれはどこに移動してどういう写真を撮れという無線電信の受信機なのだろう。軍の回線を使い指示・命令を確実に伝えるほうほうだったのだろう。アメリカ人の肉筆なんぞ読めないのだろう。確実な伝達命令だ。彼は沖縄戦にも従軍し近くで日本軍の砲弾が爆発して、映画でも分かったが手指がまともに動かなくなり、口でシャッターを切っていたのは現実の話である。映画と写真はすべての出来事で軍報道部の検閲が存在する。考えて行くと使われないのは「負け戦」「米兵の死体が乱暴、乱雑に扱われている」写真は絶対に使われないことが分かって来る。そこで弱者に寄り添う写真を撮るように心がけるのだ。ドキュメンタリーには妻だったアイリーンも出ていた。アメリカの公文書館にはたくさんの使われなかった写真も大量に保管されているが、誰が撮影したのか見当もつかなかった。ただその弱者に寄り添うという視点はミナマタを撮影するときに生かされてくる。

▼日本もアメリカも案外いい加減なところがある。例えばオスプレイを攻撃機だとか爆撃機という人がいる。しかしアメリカ軍の分類では輸送機だ。UH 1だとかAH1の様に砲はそれほど性能が高くない。ヘリは乗り降りする時に一番攻撃されやすい。その時の防御用の機関銃かバルカン砲くらいである。先週土曜日アメリカの犯罪再現ドラマを見ていた時の事である。夫婦中が悪くなり、妻は夫が邪魔になる。護身用に用意してあった22口径ライフルで夫を殺害したらしいと警察は予測する。しかしTVに出て来たライフルはボルトアクションで自動ではない手動だった。さらに弾丸に至っては22口径ではなく30口径の件銃弾だったのはお笑いである。アメリカにも日本にもそういうことを検証する人は一人もいないようだった。

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December 09, 2021

寒い農村の冬のお話。

▼昨日夜は東海第二の再稼働反対アクションがあった。しかし仕事が終らない。さらに雨が降り路上は滑りやすい。転倒でもしたら大変なので出動は自粛した。機材が思いので滑ったら大けがをしてしまう。アメリカから日曜日帰国した友人は成田から直行で都心のアパホテルで観察になって4日目、朝のPCR検査で異常がなければ、手配のバスで成田に連れ戻され、そこから公共交通機関を使わないで東京駅まで戻って帰宅となる模様だ。アメリカを出国する前に2泊観察、都内で5泊だから合計7泊させられたことになる。

▼わたしの体調はまず不具合はない。ただ寒いところで育った割りに寒さに弱い。木造家屋で外から雨戸→ガラス戸→障子の家だったから防寒対策はないに等しい。家内は炬燵だけだ。冬の夜は家族が炬燵を囲んで布団を敷く。夜は暖かいが朝になると喉が痛くなった。雪は降らないのでスキーはできない。スキーはお金持ちの遊びで、子どもは田んぼに水を張って下駄スケートを楽しんだ。足袋をはいたうえがら真田紐でぐるぐる巻きにするかた痛い。長く滑っていると血液が足に循環しないので痛くなってくる。

▼現金収入は米と養蚕だけである。養蚕も慣れない人には蚕が変化して最後は黄色になって糸を吐いて繭玉を作るのは奇怪でしかない。夏は蚕第一なので花火で遊ぶことは許されなかった。それでも祖父は先進的なことにトライしてリンゴや桃の栽培を始めたので偉い。桃が開花して霜が降ると予想されると、まだ霜の対策もなかったので、家じゅうが徹夜で畑に出て、古タイヤを燃やして霜を予防した。まだ霜の理屈も分からなかったのでそれらは全く役にたたなかった。今の果樹園にはあちこちに小型の送風機(扇風機の大きなもの)が取り付けられている。キアヌ・リーブスの初期の映画で南米のどこかで鳥の羽根を使って霜を防いでいるシーンは、ありえないのでお笑いだった。

▼今朝の東京新聞1面左トップの慶応大学出身の軍医が真珠湾攻撃で潜水艦に乗って監視していたという記事は衝撃的だった。遺品が慶応大学三田キャンパスの塾史展示館で公開されているというので、潜水艦大好き人間としては、さっそくネットで申し込みをした。

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December 02, 2021

中村吉右衛門のサインいり本

▼人の命ははかなく短い。家族の一人は中村吉右衛門の大ファンだった。大学生の時、友人たちが「歌舞伎座」の楽屋に吉右衛門を訪問した。そして三島由紀夫の編集・執筆した「中村歌右衛門」という写真集の著作に「〇〇〇さん江」とサインして、頂き今でも大切に保管している。昨年9月の土曜日だったと記憶しているが、午後の民放で水前寺清子が司会する番組で「吉右衛門一代記」を放映していて、出生から苦労の連続だったなと感じていた。歌舞伎役者は有名になると稽古も含めほぼ一か月拘束される。通常25日に部隊が終り、休みは1,2日で稽古に入る。そして2日には幕が開く。だから女方として有名な坂東玉三郎は舞台が終ると一切の飲み食いの付き合いは断り、帰宅してマッサージ師を呼んで体の疲れをほぐしてもらっている。だから吉右衛門の趣味はただ一つ馬券を買う事だけだったというのもうなずける。

▼友人とちょっとしたトラブルになっている。それは「原発事故が起きたら長野の実家にしばらくかくまってもらえるか?」という半ば冗談話から始まった。結論から言うともう、実家の名義は妹になっており、甥夫妻が住んでいる。だからわたしも勝手に他人の家だから入れない。鍵ももっていない。無理やり入れが犯罪になってしまう。私にも親しい友人は30名くらいはいる。私も実家には入れないので、必要な時は近くのホテルに泊まっているくらいだ。たとえ30人の友達がいたら家族を含めて100人になるので庭にテントを張るしかない。しかも村には販売店はおろか店は1件もない。さらにレストランや食堂は3km以内にはゼロである。わたしには何もできないので近くの神社の境内に、氏子総代の許可を得てテントを張ってもらうしかない。

▼結論から言えばわたしは反原連の国会周辺の原発反対運動に最低でも、毎週金曜日の夜、10年間通った。片方は家の中でテレビを見てくつろいでいた。通えば親しい友人もできて、隅田川が氾濫しそうになったら、「自宅に避難して来い」という友人もできた。わたしは中村吉右衛門と同じ年齢だ。父は87歳で死んだが、80歳になってから一切のコミュニケーションがとれなくなってしまった。わたしが正常でいられるのも、あと数年である。

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